005言ってみましょう蒔菜さん
登場人物
出衛工蒔菜(でえく まきな):奇人
日護氷雨(ひご ひさめ):変人
柳霧弓弦(やなぎり ゆずる):苦労人
赤く暗い空が広がる、夢路の町。人気はなく、普段の風景とはかけ離れた廃墟の様相を感じさせる。
夢世界。人を喰らう影の怪物、レテが徘徊するもう一つの夢路町だ。
そんな廃墟の世界に、一際目立つ異物があった。
家である。
大きさ的に小屋と言うべきか。青い屋根に緑の壁、ピンクのドアに丸い小窓。三メートル四方ほどの大きさのそれは、恐ろしくファンシーな一軒屋だった。
その一軒家の中、二人も入れば狭いと感じる空間で、二人の男女が顔をつき合わせて小さな机に向かっている。
宿題をしていた。
男の方は色素が薄く無愛想、女の方は長い髪で、これまた無愛想。夢路第一高校の二年生、日護氷雨と出衛工蒔菜であった。
「分からない」
唐突に、氷雨が言った。見れば数学の問題集を前にペンが止まっている。
「それは最初の式で出したXの値を次の式に当てはめて計算するやり方でYが出せますよ」
蒔菜がこともなげに言った。自分の宿題から目を上げてもいない。
氷雨は思う。うらやましい、と。なので口に出した。
「蒔菜の能力、僕も欲しい」
蒔菜の能力の一つ、昇華の内容は〈とても冷静になれる〉というものだった。それにより思考能力が通常よりもよりよく動き、考え事を素早くまとめることができる。通称『ハイパー賢者タイム』と呼ばれていた。
「きっと意味がありませんが、それでもよろしいのですか?」
蒔菜は喋りながらも手を止めない。英語の長文を訳し、ノートに書き込みながら続けた。
「私(わたくし)のハイパー賢者タイムは言ってみれば思考速度の上昇です。つまり頭がよくなるわけではないので日護様が急に天才になることはできないかと思います。きっと宿題が分からないのも変わらないでしょう」
なるほど、と思う。その上でもう一つ思う。
「君は遠慮がないね」
間髪いれずに答えが返る。
「お褒め頂きありがとうございます。私の美点です」
氷雨は深くうなずいた。無表情な彼からはどのような思いがうなずきにあるかは見て取れない。氷雨はとりあえず話題を変えるために再び口を開く。
「レテ、こないね」
「そうですね」
二人がこのファンシーな小屋に陣取っているのはレテを待ち伏せしているからだ。生徒会長である柳霧弓弦からここで待てと指示されたのはいいがなかなかレテが現れず、ついには蒔菜が『マキちゃんハウス』を召喚して宿題をしていたのだ。
おもむろに、蒔菜が立ち上がった。
「来ぬのなら、呼んでみましょうホトトギス」
何がホトトギスなのかわからないが、蒔菜はおもむろに歌い始めた。
「まーどをあけーましょ、ルンルーンルン」
誰もがおなじみの歌が蒔菜の口からつむがれ、歌詞の通り窓が開け放たれる。窓から身を乗り出し、両手を口に添えて歌い続ける。
「よーんでみましょうレーテさん」
言った瞬間、窓の向こうの空の下、薄暗い道の上に、スライム状のレテが姿を現した。
「うそだー」
無表情だがしかし、確実に呆れた声が氷雨から発せられる。
「はっはっは、あのレテはサ〇エさんと名づけましょう」
同時に、弓弦の声が二人に届いた。
「随分と待たせたのう。存分に暴れるがよいぞ」
「待たせた割には投げやりですね。会長様の暖かい心遣いが身に染みるようです。流石鬼畜会長様」
「ふふふ、蒔菜よ、おぬしは今度覚えておれよ」
そんなやり取りを背後に、氷雨が何事もないかのように太刀をもって外に出た。レテを前に太刀を鞘から抜き放つ。
笑顔。
氷雨の顔に笑顔が浮かんだ。この感情が見えない男は、レテとの戦いにのみ笑みを浮かべる。
「相変わらず、楽しそうで何よりです。日護様」
蒔菜も外へ出た。瞬間、マキちゃんハウスが消える。
笑ってはいるが、実際に氷雨が楽しさを感じているのかは聞いたことがない。しかし、実に楽しそうに笑っている。
「よく分からない。けど、笑顔になる」
それは楽しいということなのだろう。蒔菜は思う、それが氷雨の戦う理由にもなっているのではないかと。
「戦う理由となるなら、よいことでしょう」
氷雨がそこまで考えていたわけではないかもしれない。だが、蒔菜はよいと思ったことをよいと言ってのけた。
「君は、戦う理由がないの」
抑揚のない声は決め付けに聞こえなくもない。しかし、それは氷雨なりの疑問だった。ゆえに、それを読み取った蒔菜は答える。
「ありますとも」
誰もよりも強い、理由がある。そう蒔菜は自負している。
蒔菜は前に出る。両手で抱え、担ぎ上げなければ持てないほどの大きさのげんのうを召喚し、担ぐ。
「知りたいのであればお聞かせいたしましょう」
レテに向かって走る。合わせるように氷雨も走った。
「私の仕事は土木建築研究会として校内の修繕でございます」
スライムレテがその体を震わせる。同時にその体からいくつもの小さな影が、蒔菜たちに放たれた。
氷雨が太刀で弾く。なおも走りは止めない。一方の蒔菜は横に迂回。しかし、前に出る速度は寄り道をしない氷雨と変わらない。蒔菜は滑るように滑走する。その足元には木製のローラースケート。
「雄々勢(おおぜい)様お手製の小型ローラースケート、『ロードローラーくん』です」
ローラースケートでつけた勢いを使って、体を軸に回転。持っていたげんのうが、遠心力で振り回される。狙いはスライムだ。
「その一方で、レテを倒すのも私の仕事であると考えます」
先ほどの言葉を続けながらげんのうがスライムに食い込む。蒔菜自身の力はないも同然だが、遠心力と質量は十分にスライムを弾いた。
地べたに張り付いたスライムを氷雨の太刀が切り裂く。
「レテを野放しにすれば、いつしか雄々勢様もレテの餌食となるやも知れません」
蒔菜の足元から、マキちゃんハウスが生えた。勢いよく生えたマキちゃんハウスは、蒔菜の体を宙へと飛ばす。
「つまり、レテを倒すことは、雄々勢様のためでもあるのです」
空中で軽く身をひねる。無重力と同じ状態の空中ならば、大きなげんのうを振り回すなど簡単なことだ。
「そっか」
氷雨が言う。
「アツアツってやつなんだね」
宙から振り下ろされたげんのうが、スライムを完全に潰した。レテが霧散する。
蒔菜は振り返る。げんのうを杖のように地面に立たせ、空いた手で氷雨に親指を立てる。
「いいえ、ラブラブです」
戦いが終わり、無表情に戻った氷雨の口から、呼気が漏れる。軽く笑ったのだ。
「ええ、私は雄々勢様のために戦いますとも」
蒔菜の表情も変わらない。しかし、口の端だけは、ほんの少しだけ上向いていた。
END
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