011掃除をしましょう蒔菜さん
登場人物
出衛工蒔菜(デエク マキナ):掃除は嫌い
園田雄々勢(ソノダ オオゼイ):掃除は好きという訳でもない
綺羅川唖玖(キラカワ アク):掃除よりモップが好き
「おい蒔菜、パンツ脱ぎな」
「ぎゃはは、ダッセえパンツ!」
「ち、また無表情かよ」
「まあいいや。今日はお前に《表情》ってのを教えてやるぜ」
「ほーら、長くて硬そうだろー?」
「ぎゃははははは!」
「一生忘れられない思い出作ってやるよ!」
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モップが嫌いだ。
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8月。夢路第一中学・高校の寮では帰省しない生徒がそこで生活を続けている。
まだ午前中だというのに段々と蒸し暑くなってきた廊下。徐々に強くなる日差しを背にして、出衛工蒔菜は突っ立っていた。
思い出すことも、やめなければ――。
手にしたバケツに視線を落とす。
今は掃除の時間だ。帰省しない生徒が持ち回りで掃除をするのが寮の暗黙のルールの一つ。今日の当番は蒔菜だ。
しかし、その蒔菜はただ、水の入ったバケツを持って立ち尽くすだけだ。
視線を上げる。
その視線の見つめる先にあるのは、園田雄々勢の背中だった。
濡らしたモップでひとり、廊下を磨いている。
申し訳ないですね――。
そう思った時、雄々勢が動いた。
「蒔菜たん――」
振り向く。
「そこに置いてくれる?」
言われ、蒔菜はバケツをその場に置く。そして自分は三歩下った。
雄々勢はゆっくりとバケツに歩み寄り、その中にモップを浸した。よく洗い、水気をバケツの縁で絞る。
「……申し訳ありません」
思わず蒔菜の口から言葉が出る。しかしそれに対する雄々勢の反応は。
「うん」
ただ頷いて、笑顔を返すだけだった。
蒔菜はモップが嫌いだ。正確には怖い。
ただ、怖いと思ってしまうと二度と立ち直れそうにない。だから、《嫌いだと強く思う》ことで精神を保っている。
三歩は恐怖を克服するための距離だ。近づくことはまだ当分できそうにない。
それを察して、雄々勢はただ笑顔で答えて、必要以上に蒔菜に近づかない。理由を聞かれたこともないのに、雄々勢は最初からその態度を示してくれていた。
出会った時から。
だからこそ。
申し訳ない、ですね――。
蒔菜はそう思う。
原因は中学時代。
蒔菜はいじめられていた。
雑巾を投げつけられ、背中に煙草を押し付けられるなどはよくあることだった。だからこそ、その全てに無表情で対応することを覚えた。
ただひとつだけ。
モップは、ダメです――。
モップだけは克服できない。蒔菜の《大切なものを奪った》モップだけは。
その一方で、申し訳ないと思える自分がいるのも進歩なのかもしれないと思える。
中学のいじめ、特にモップのそれが原因で地元を離れ、遠いこの夢路の街に高校を選んだ。
そこで出会えた雄々勢という少年のおかげで、自分はだいぶ変われたし、救われたと思う。
だから。
もっと、前に進まなければ――。
そう思って、雄々勢の背中を見つめる。モップを持って廊下を磨く、その大きくはない背中を。
「あーら、アナタはそーじしないのお?」
不意打ち。気がついたその時に、すでにそれが顔のすぐ前に突き出されていた。
モップだ。
「きゃ!?」
一声叫ぶ。その時にはすでに、《相手を突き飛ばしていた》。
突き飛ばされたモップの持ち主は、尻餅をついて廊下に座り込んだ。その時にはもう、蒔菜は窓際の壁まで張り付くように後退している。
蒔菜の顔は、恐怖という感情で包まれていた。同時に、思わず《そこ》を手で抑えそうになる。それだけは、全身全霊で力を振り絞り、抵抗する。
「もーう、痛いじゃなーい」
モップを持つ女子が立ち上がる。
夢路の制服。しかし見たことのない顔。ショートの茶髪、ルーズな着こなし、褐色の肌、気だるげな雰囲気を全身に纏った、いわゆるギャルという格好に見える。
立ち上がったギャルは、モップにすがりつくようなポーズをとる。その表情はあられもなく恍惚的だ。
「アナタ、モップがお嫌い?」
ねっとりとした言葉で聞く。だが、蒔菜が何かを思うより先に、二人の間に割り込んだ影があった。
雄々勢だ。
「ごめんね。ちょっとびっくりしたんだよ。大丈夫だったかな?」
何事もなかったように、ギャルを気遣う。
しかし、言われたギャルはただ、ふうん、とだけ鼻を鳴らした。
「ふふ、そういうことねー」
モップを胸の谷間に挟み込むように抱える。顎が艶やかにモップの柄を撫でた。
「また会いましょう、蒔菜ちゃん」
それだけを言うと、ギャルは踵を返して去っていく。モップを抱きかかえながら、恥ずかしげもなく。
「なんだったんだろう……?」
雄々勢は疑念を抱く。だがすぐに蒔菜に振り向いた。モップを持っている自分が近づかないよう、考慮しながら振り返る。
「蒔菜たん、大丈夫?」
「……はい」
答えた蒔菜の顔は、しかし青ざめていた。
雄々勢はそんな蒔菜を抱きしめてやりたかった。だが、《男である自分》はそれができないことを知っている。
ゆえにただ、笑顔で大丈夫と、笑って見せた。心の中で悔しさをにじませながら。
だが蒔菜はそれに気づく余裕もない。それ以上に頭の中を危険信号が駆け巡る。
あの女は危険だ。
過去の経験が警告を鳴らす。
ただ、恐怖と悔しさで、奥歯を噛んだ。
END
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