013テオという可能性、でダンディ!


登場人物
テオ・ファーデ・飯田(テオ・ファーデ・イイダ):可能性を持つ男
ラカンサ・ファーデ:可能性を育てる男
美紗緒・ファーデ(ミサオ・ファーデ):胃袋を育てる女
キャスカ・コンディ・ペルエル:ちょっかいをかける女
飯田玄道(イイダ ゲンドウ):期待していた男




「ねえお父さん」
 緩やかな黒髪、落ち着いたカーディガンの上品な女性が、目の前の巌のごとき顔をした和服の初老に言った。
「この子がテオよ。私とあの人の子供」
 優しさを持った赤い日差し。夕焼けの中で、幼いテオは祖父を見上げた。やや古い、昭和的な縁側にそっと風が吹く。
「ハジメマシテ、グランパ」
 片言の日本語。それを聞いた祖父は片方の目を吊り上げた。
「あのクソ野郎の息子か」
 お世辞にも孫に向ける顔とはいえない。
「グランパ、リキシ、デショ?」
 言われた祖父、飯田玄道は口端をひくつかせた。
「元、力士だ」
 現在の玄道は引退し、飯田部屋を立ち上げた親方だ。
「リキシハ、ツヨイ! ダカラ、ボク、リキシニ、ナリタイ!」
 玄道は、ほう、とだけ息を漏らす。
「グランパ! ボクヲ、リキシニシテヨ!」
 玄道は不思議な顔をした。怒っているような、慈しんでいるような、そして困っているような。そんな顔だ。
「ねえお父さん、もしこの子が――」
 黒髪の女性、母美紗緒は言う。
「この子が力士になれたら、そのときには――」
 風が吹いた。爽やかだが、木々を揺らす、強い風が。
 美紗緒の言葉に、玄道はただ一言を返した。
「やる気なのか? 小僧」
「ウン!」
 幼いテオの声は、力にあふれていた。


 ●


 薄暗く、拾い室内に硬い音がこだまする。
 節電により照明を最小限にされた大広間。テオの実家であるファーデ家が持つ城、オーバールッカー城。その普段は使われていない大広間である。
 硬い音が幾度目かのこだまをした。それはスティックがかちあう音。シングルスティックというイギリスにおける剣術の音だ。
「テオ、動きが硬いぞ」
 渋い顔を、にやりとした笑顔で深めた口髭の男性が言う。テオの父、ラカンサ・ファーデだ。
「分かっています――!」
 テオは反論する。だが、やはりその動きは硬く、スティックを振るう腕に力がこもりすぎている。
 分かってはいる。分かってはいるのだが――!
 テオは思う。分かっていると。自分の弱点が何かなど、とうの昔に全て分かっているのだ。
 だが――!
 分かっているのと、それをどうにかできるのは違う。テオはあがいていた。《どうしようもない自分》にあがいているのだ。
 ラカンサはテオよりも背が高い。だが、体つきは薄く、言ってしまえばひょろりとした体格だ。だが、そのスティック捌きは柔軟で鋭く、何度となくテオのスティックを弾き、テオの手に、胸に、体に、鋭い痛みを与えてくる。
 容赦のないシングルスティックの訓練であった。
「テオ。私がシングルスティックを現代海軍の訓練課程に導入したのはわけがある」
 テオの体を激しく打ちのめしながら、ラカンサは語る。
「戦いにおいて必要なのは精神と肉体、知識。それらの総合力だ」
 語る間にテオの体の傷は増えていく。ついには額への一撃で血が流れた。
「それらを十全に使いこなすには、己の力、己の限界、己がなすべきことを認め、柔軟に全てを使いこなすことが必要だ。シングルスティックという剣術、つまり武術はそれらと向き合うためにはとても有用なものだ」
 ラカンサのスティックを、テオの必死の一撃が弾いた。しかし、次の瞬間、ラカンサは弾かれたスティックの軌道に従い《腕だけを回す》。弾かれた力をそのまま回転によって軌道修正を施し、スティックの柄に集中させて自らの力を込める。
「テオ、お前は己の力、その限界を認めることが出来ていないのだ」
 鋭い一撃。スティックの柄による横殴りの一撃が、テオの顎を打ち抜いた。
「テオ、己を認めたまえ。その弱さも、その強さも。全てに向き合って、柔軟に先に進むんだ」
 顎を打ち抜かれたテオは床に倒れた。高い天井が見える。天井に描かれた天使の絵が、薄暗い頭上から微笑んでいた。


 ●


 オーバールッカー城、その食堂。
 広いとは言うものの、映画などで見るような豪華の城のそれとは比べ物にならないくらい小さい食堂。その端の席を囲んで、美紗緒とキャスカはティータイムを楽しんでいた。
「テオはね? 今、壁にぶつかっているのよ」
 美紗緒が口にした。
 ティーカップを持ち上げて、紅茶の赤い色を見つめながら、声に出す。
「壁、ですか?」
 キャスカはクッキーをかじりながら聞いた。
「そう、壁。それも万里の長城より大きくて、ベルリンの壁より厚い壁」
 そういった美紗緒は、ふふ、と笑い、大変だわねえと付け加えた。
「だから今、テオはあがいているのね」
 紅茶を一口、口に含む。喉に流れていく赤い湯は、暖かな香りをもたらした。
「どんな壁なのです?」
 キャスカは乗り出すように聞いてみた。キャスカはテオが好きだ。恋という感情が他人にとってどのように感じられるのかは分からないが、自分の好意は恋なのだと思っている。だから、好きな人間の話は聞いておきたい。
「約束をしたのよ」
 美紗緒が、遠くを見るような目をした。
「むかーしむかしにね、あの子は約束をしたの」
 キャスカは声を立てぬよう、耳に集中した。
「そうね、私たち家族を幸せにする約束よ」
 だんだんと独白めいてきた美紗緒の言葉。
「だけど」
 一拍。
「テオの力じゃ無理なんだわ。人の力には限界があるから」
 キャスカは思わず聞いてみた。
「では、テオは壁を超えられない、家族を幸せには出来ないと?」
「そうね、今のままではね」
 美紗緒は笑った。その笑顔の意味は、キャスカには分からなかった。
「限界はね? 超えることが出来るものなのよ」
 美紗緒はただ、笑みを浮かべてキャスカを見つめた。


 ●


 夕食時。美紗緒にテオを食堂に呼んでくるように言われ、キャスカはテオの部屋の前へきていた。現代的に使いやすくするために、今風の内開きのドアが付けられた城の壁の前に立つ。
 ノックを数回。
「テオ、入るぞ」
 返事は待たない。テオが自分を拒むことはないという自負だ。
「ひゃくじゅうさん……、ひゃくじゅうよん……」
 部屋のドアを開けると、ベッドの隣で腕立て伏せをしているテオがいた。
「ああ、……キャスカか」
 テオはちょっとだけこちらを確認すると、また腕立てに戻る。
「そろそろ夕食だから、ミセス・ミサオが食堂で呼んでいる」
 それだけを言うと、キャスカはベッドに腰を下ろした。腕立てを続けるテオを横から見つめる。
「ああ、少し待ってくれ。……もう少しで、終わる」
 テオは酷く汗をかいていた。上半身は裸で、ズボンだけを身につけている。その上半身には見事な赤い痣や傷がいくつもついていた。
「よほど閣下の特訓が激しかったと見えるな」
 特に感情のない顔で、キャスカは言う。テオもただ、腕立ての回数を数えるだけだ。
 会話のない時間が、暫く続いた。
「なあ、テオ」
 キャスカが口を開く。
「日本で、恋人は出来たのかい?」
 言った瞬間、テオの両手が汗で滑った。顔面から床に落ちる。幸い分厚い前髪によって痛みはたいしたものではないようだ。
「きゅ、急に何を言い出すんだキミは!?」
 勢い良く床の上で振り向く。しかし、キャスカは平然とした顔で言葉を続けた。
「出来てないのかい?」
 ただそれだけを聞く。
「い、いやその――!?」
 ひとしきり慌てる。幾分落ち着いたところでテオは応えた。
「特には、出来ていないが……」
 日本の学生生活で女性の友人も多くできた。しかし、恋人というような関係の女性はいない。
「そうか」
 キャスカはテオを見つめる。
「僕では、駄目なのだろうか?」
 直球だ。自分では恋人になれないのか、そう、キャスカは聞いていた。
「な、何を急に――!?」
 テオは慌てるが、キャスカは慌てない。
「なあ、テオ。僕が君のことを好きなのは君だってわかっているだろう? だから素直に聞いているだけだ」
 テオは考え込んでしまった。キャスカは友人だ。それも幼い頃からの親友だ。これを恋心と言ってしまうことはできるのだろうか? 自分が思っている感情と、キャスカの思っている感情は違うんじゃないだろうか?
 テオは思う。多分違うんだろうと。だけど、自分に好意を持ってくれる彼女を無碍にするのは、それは失礼なことなんじゃないかと。
「テオ、難しく考えるのは君の悪い癖だ」
 キャスカは言う。その顔は、安心したような、呆れたような、テオを優しく見つめる顔だ。
「僕はキミにふられたって大丈夫だ。そんなにやわな僕じゃない。それは君も知っているはずだ」
 眉を下げた顔で、キャスカは続ける。
「でもキミはこう思うのだろう。自分が好きな人もいないのにただ断るのは僕の好意に失礼なんじゃないか、ってね」
 ふ、と笑う。
「真面目なやつだよな、キミは」
 テオは言葉もない。普段学校の友人に対してはひょうひょうと、そして紳士的にダンディを気取っているが、その実心根が真面目すぎるのだ。
「だからテオ、約束をしよう」
「約束――?」
 聞き返すテオに、キャスカは言う。真面目に、だけど優しく、緩やかに口にする。
「キミはまだ暫く、日本にいるつもりなんだろ? だから、二十歳になるまでにキミに恋人が出来なかったら、その時は僕を恋人にしてくれ」
 その約束は、テオには酷くキャスカをないがしろにしているように感じられた。
「でもそれでは、キミを待たせているだけじゃないのか?」
 テオの言葉に、しかしキャスカは言葉を重ねた。
「僕はテオが好きだ。テオのためなら待つ事ができるし、待つという選択肢は僕自身が選ぶ、僕の決定だ。それがつらいとは思わない」
 キャスカは続ける。
「もしテオに僕以外の好きな人が出来れば、きっとテオが僕をふることに抵抗はないと思う。まったくとは言わないけどね。それが恋というものなんだと思うよ」
 だから――。
「だから、テオ。もっとキミは自由に生きてくれ。僕のことも、キミの家族のことも、重く考えるんじゃない。自由に、自分のために。そしてそれがキミの周りの人たちに繋がっていくように」
 もっと自由に――。
「楽しく生きてくれないか?」
 最後は願いだ。キャスカという女の子の、好きな人への願いだ。
 キャスカはテオの体を抱きしめた。傷だらけの、その小さな体を。
「自分のために生きてくれよ、テオ。それが一番、キミを思う僕たちの幸せなんだ」
 テオはただ、自分を包むキャスカの腕を、そっと触ることしか出来なかった。


 ●


 翌日。
 大広間において、ラカンサとテオは向かい合っている。その手にはシングルスティック。特訓の続きだ。
「構えなさい、テオ」
 ラカンサがスティックを構える。スティックを持った右手を前に、左手を腰の後ろに、半身になってスティックを緩く突き出す。
 対してテオは、
「ほう。それがお前の答えなのかな?」
 テオは構えた。両足は肩幅より広めにに開き、腰を落とす。スティックは両手で杖のように持ち、横にして顔より少し前へ。
 その構えは相撲の立会いにスティックをつけたようなものだった。
「ダディ、私はやはり力士なのです」
 テオの顔は、真剣で、明るい。
「力士ですが、力がない。持って生まれた非力はどうしようもない」
 自分を認めた結果だった。
「だから、ダディのシングルスティックをお借りします。その上で――」
 ここだけは譲れない。
「私は力士なのです」
 ラカンサは笑った。にやりとした、深い笑みだ。それは息子を見る目ではない。成長してゆく男を目の当たりにする喜びの目だ。
「テオよ。それを自分のものにするには今まで積み上げたものを壊し、また構成していくという大きな課題がある」
 口髭をしごく。
「日本に帰るまでの数日で、やって見せなさい」
 やれるか、とは聞かなかった。やって見せろと、そう言った。
「もちろんです、ダディ!」
 テオは走り出した。相撲の構えにスティックという力を乗せて。自分の父親ではなく、その向こうにあるものへと、走ってぶつかっていった。


 ●


 飛行機が飛んでゆく。澄み渡る晴れた空に、エディンバラ空港から飛び立つ旅客機が、空の向こうへと飛んでいった。
「行ってしまったわね」
 美紗緒が呟く。空港の屋上に、美紗緒とラカンサ、キャスカはいた。
「まあ、あいつなら大丈夫さ」
 ラカンサは言う。右腕の痣をさすりながら、自慢の息子を思って言う。
「自分で答えを出して、自分で向かっていくんだ。それならば大丈夫だ。自分の意思がある限り、紳士は進んでいくものだ」
「この痣が証拠ですね」
 キャスカがスーツの上からラカンサの痣を軽く叩いた。
「いたっ!? 痛いぞキャスカ君!」
 キャスカは笑う。自分で二十歳まで待つと宣言し、テオにゆだねた。だが後悔はしていない。きっと自分の言葉で、テオは自分の道を生きようと改めて思ったはずなのだから。
「四年後か――」
 テオと自分がどうなるか分からない。待つとは言ったが、その間に自分がどうなってゆくかも分からない。
 未来は誰にも分からない。だけど、今を思い、明日を見つめ、自分の意思を持って生きていくことは可能なのだ。
「さあ、帰りましょう。テオのために作ったお好み焼き、作りすぎてまだ余ってるのよ。みんなで片付けて頂戴ね」
 三人は、晴れた空の下を街へ向かって歩き始めた。



END


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