017塗り替えましょう蒔菜さん


登場人物
出衛工蒔菜(デエク マキナ):傷ついた女
園田雄々勢(ソノダ オオゼイ):傷を癒す男



 木工準備室に音が響く。
 土木建築研究会、土研が強引に占拠した狭いその部屋に、単純、だが多彩な音が響く。
 音はリズムだ。
 物理的な硬いものを叩く、それだけの音。しかしその音は重低音を、高音を、時には中音を響かせリズムを作る。リズムは規則正しく、即興性が高いが乱れの一つもなく響く。
 不意に音がやんだ。
 やはり駄目ですね――。
 出衛工蒔菜はそう思う。
 音を奏でていたのは蒔菜であり、使っていた楽器はカホンと呼ばれる打楽器だ。単純な四角い箱にサウンドホールと呼ばれる音を響かせる穴を後ろに取り付けただけの楽器。蒔菜のリズム練習用の楽器であり、《この世にたった一つの》大切な楽器でもあった。
 蒔菜がバンドに所属すると言った時、園田雄々勢は一言だけを言った。
「そうなんだ。楽器は何をやるの?」
 その時はパーカッションとだけ答えて、それ以上は特に会話がなかった。だが、次の日にはこのカホンを持ってきて雄々勢はこう言った。
「蒔菜たんにプレゼント」
 雄々勢の手で手作りされた、この世にたった一つのプレゼントだった。
 カホンは単純な楽器だ。構造が単純であり、それゆえに音を出すだけなら誰でも出来る。それは練習に最適であり、バンドに誘われたが特に音楽経験がない蒔菜にとってとてもありがたい楽器だった。
 カホンに座り、その端の部分を叩く。しゃん、という鈴の音が響き、打音とあいまって中音を作る。
 単純な楽器なのに、ちゃんと手が込んでいらっしゃる――。
 このカホンを鳴らせば鳴らすほど、雄々勢の自分に対する愛情が感じられるようだった。
 カホンにまたがりなおし、再びリズムを刻む。正確なリズムが響き渡り、体が僅かに揺れる。しかし――。
 やはり駄目です――。
 蒔菜は思う。動きが硬い、と。硬い動きは正確だが硬いリズムしか生まない。なぜ硬いリズムしか刻めないのか。
 蒔菜はそっと《そこ》に手を当てた。
 女性にとって、一番大事な部分。そこに手を当てた瞬間、びくりという振るえと共に過ぎる記憶。
 ――。
 蒔菜はまだ、過去から解放されていないのだと改めて思う。一年と半年以上、雄々勢との楽しい日々を過ごした。それでもまだ、過去を振り切れない。カホンから豊かなグルーブを生み出すことも、雄々勢と素直に付き合うことも、このままでは無理なのだろう。
「やるべきですね」
 蒔菜は口にした。決意だ。言葉にして自分に言い聞かせ、心を決めた。
 ポケットから、一通の手紙を取り出す。手紙は封がされているが、宛名がなかった。
 カホンの上で、さっと書く。
 ――雄々勢様へ。
 それだけを書いて、雄々勢が来るのを待った。


 ●


 土研の部室に雄々勢が来た時には、既に空は赤味を帯びていた。
「いやー、まいったまいった。掃除当番がみんなサボっちゃってさあ」
 ぼやきながら入ってきた雄々勢に、蒔菜は立ち上がって手を振った。
「お待ちしておりました、雄々勢様」
 その姿は異様でしかなかった。単純に言えばでかいカホンだ。人間大のでかいカホンに手足が生えて、サウンドホールから蒔菜の顔が見えていた。
「うわあ、斬新」
 雄々勢はたじろぐ。一体今日の蒔菜は何だと言うのだろう。
 人間大のカホンは何も気にすることなく、机の上にあった一通の手紙を雄々勢によこした。
「手紙?」
「はい。古来より日本では手紙によって愛を確かめ合ったという風習に則ってみました」
「それ、平安時代とかだよね?」
 言いながらも雄々勢は悪い気はしない。好きな女性から手紙をもらってうきうきしない男などいないのだ。
 丁寧に封を開け、目を通す。そこにはたった一文が綴られていた。
〈雄々勢様へ。一発ヤらせてください。〉
 読んだ瞬間、雄々勢の頭が吹き飛ぶ。正確には、頭に開いた穴という穴から原因不明の液体だかなんだかが飛び出た。
「ぶぼあ!?」
「ふふふ、雄々勢さま、ヤル気満々で顔からさまざまなものが吹き出たご様子」
「違うよ!? 驚いたんだよ!? どういうこと!?」
 雄々勢が慌てているのは健全な男子としてもあるが、今までの蒔菜では考えられなかったからだ。
 今までなら、《本気で肉体的誘惑を》してきたことはない。むしろ、肉体的な接触を蒔菜は避ける。それは雄々勢にしても何らかのトラウマがあるのだろうと思っていたし、モップを毛嫌いすることからも察してはいた。
「私(わたくし)は、前に進まなければならないと考えたのです」
 被り物のカホンの、肩口に取り付けられた突起に手を伸ばす。
「前に進まなければ、ならないのです」
 思う。前に進まなければと。このままでは雄々勢を守ると誓った自分を保てないと。そしてなにより――。
 もっと雄々勢様の傍に居たい――。
 突起を弾いた。カホンの被り物がすべてばらばらになって床に落ちる。そこに残ったのは、生まれたままの姿の蒔菜だ。
「蒔――!?」
 蒔菜は抱きついた。生まれたままの姿で雄々勢に。その目からは、涙がこぼれている。
「蒔菜たん……」
 落ち着いた雄々勢の声に、蒔菜は嘆願した。
「お願いです。雄々勢様、貴方の体で私の記憶を、上書きしてください――!」
 蒔菜は強く、雄々勢を抱きしめた。


 ●


「蒔菜たん、大丈夫?」
「はい。私のそこはもう、何も感じない場所ですから。痛みは心配しないでください」
「泣いてる――」
「怖いけど、嬉しいのです」
「いくよ――」
「――っ!」
「蒔菜たん」
「――なんでしょうか……?」
「ありがとう」
「――!」


 ●


 蒔菜の涙は、止まらなかった。


 ●


 日は沈み、下校時刻などとっくに過ぎていた。
 だが、二人は部屋から動かなかったし、ただなんとなく二人で座って手を繋いでいた。
 やがて蒔菜はカホンにまたがる。緩やかにリズムを刻み始める。
 とんとんと、たんたんと。
 そのリズムは正確だ。だが、どこか余裕があり、即興性もあいまってノリのいいグルーブ感を伝えてくる。
 心地のいい空気が、広がっていく。
「雄々勢様」
「ん? 何?」
 リズムに身を任せて、雄々勢は聞いた。
「前は感じない体なので、今度から後ろを開発してくださいませ」
「台無し!? 台無しだよ!? ていうかすごいこと言ったよ!? いいの!?」
 蒔菜は答えた。薄く口を笑わせながら、目を細めた緩い笑顔で。
「はい、もちろんですとも」
 雄々勢は鼻血を噴いてその場に倒れた。



END


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