―苦く楽しく、いとおしく―
登場人物
RED:相談者
CAT:回答者
Welcome to the 【KUMITE】 mode !
●
システム:REDさんが入室しました。
RED:こんばんは。遅くなりました^^;
CAT:こんばんは^^
CAT:いえいえ、そんなに待ちませんでしたよ(笑)
RED:早速ですが、とりあえず始めましょうか?
CAT:お願いします^^
●
Stand by.
●
青空の下を、拳が走った。
手の甲を下に、握りこんだ指を上に、水平に突っ走る。
拳の速度は、拳そのものの速度だけではない。
右手を奥に、半身に構えたその身体の全身を使った速度だ。
後ろに置いた右足を捻る。そのまま膝を、そして左足から腰を回す。右足の捻りと合流した腰の回転は肩へと伝わり、右の拳を押し出す。左手を弓のように限界まで後ろに引くことで拳の速度が倍加する。
全身の力を余すことなく速度に変えた突きこみ。
拳は腕が伸びきる直前、眼前の対象にぶつかるその直前に回転が加えられ、握りこんだ指が下となる。
全ての速度を拳に集約し、回転を加えることでインパクトの瞬間に爆発させる。
それは必殺の一撃。
正拳突きだ。
まるで教本に載っているかのような美しさで拳は突きこまれた。
お手本に描かれるような基本の動き。
しかし、基本は最大の奥義でもある。
完成された基本は全ての小手先の技を破壊し尽くす絶対の力だ。
強大な力である以上、どんな技術があってもそのレベルの違いを埋めることは出来ない。
力には、力で対抗する必要がある。
ゆえに。
それは動いた。
向かってくる絶対なる力から自らを守るために、やはり同等の力を使う。
右足を後ろにした半身。しかしやや正面向きで両手を上げた典型的なファイティングポーズ。
その構えから左足を後ろに引くことで距離を取ると共に身体に回転の力を蓄える。身体を左に回し、得た力を余すことなく右手に伝えて肩を回せば、生まれるのは構えを逆向きにしながら拳を横から押しのける右腕の動きだ。
力は横からの介入に弱い。
向かってくる力の塊は、しかし同等の力を持った横への押しのけによってその到達点をずらされる。
外に弾かれた拳は虚空を打撃。打撃の衝撃でそれを放った方は身体の動きが一瞬だが止まる。
拳を押しのけた腕はそれを逃がさない。
押しのけた動きのまま、その手首を掴んだ。
身体がつながりあった状態での打撃は全身を使えなくなるために攻撃力が格段に落ちる。
打撃の応酬とはまた違う闘い方が必要とされる。
瞬間、掴まれた方の身体が仰向けに宙に浮いた。
掴まれた腕を基点に、全身のばねを用いて突き込むような蹴りが放たれる。
しかし、次の瞬間には掴んでいた手は拳を離し、距離を開けながら離した手をもって蹴りを払い、安全圏まで身を引いた。
宙に浮かせた体が地面につくと同時に跳ね起きる。
相手は距離をとったために手を出せない。
二人は対峙した。
それは、恐ろしく高度な格闘戦だった。
●
仮想空間バトル。
それはシエル・ロアのネットを介して行われる、仮想空間上でバトルを再現するサービスだ。
正式な名称が『仮想空間バトル』であるかどうかも知られていない、民間の有志によるサービスだった。
管理している人間も、アバターで仮想空間に現れることはあるが、その素性を知るものはいない。
この仮想空間バトルが流行る理由は一つ。リアリティだ。
風景は実際のシエル・ロアの町並みが再現されており、本物と見紛うばかりのCGだ。
しかし、それ以上にユーザーの身体能力の再現度が高い。
そしてその再現は異能にまで及ぶ。
それゆえに見た目も含めて全て自分を再現し、現実の如く力を試せるこのシステムは、表立って出てこないものの、力試しというものに興味のある人間の間で異様な盛り上がりを見せたのである。
力に興味ある者にとっての最大の娯楽ともいえるもの。
それが仮想空間バトルであった。
●
高層ビルが照り返す太陽の光がまぶしい。
照り返しは等しく、中央街の美しく整理された路上を照らし出す。
しかし、その光には熱が感じられない。
仮想空間だ。
シエル・ロアの中央街区。オフィス街として建造されたその街に、しかし今、人影はほとんどいない。
いるのは路上に対峙する二人の人影のみ。
二人はお互いに間合いを測りあい、それぞれに闘いのための構えを取っている。
仮想空間バトルが行われているのだ。
CATは身構えた。
地面に一度、背中をついたが土や埃を払う必要はなかった。
仮想空間ならではであるが、現実でも彼女は払うという動作はしないだろう。
何せ今はバトルの真っ最中だ。
意識を集中すればアバターが自分の体の如く動き、相手との距離を測る。
CATのアバターは現実の自分の姿ではない。仮想空間バトルの世界のために用意された偽物の映像だ。
CATというハンドルも本名ではない。
まるで格闘ゲームのような道着姿の女性型アバターを動かし、相手を見る。
相手もまた、仮想空間バトル用のアバターであった。
全身が赤く、長い毛に覆われた狼の獣人のアバター。その顔は少し手が加えられており、デフォルトよりも可愛く愛嬌があった。
狼のアバターは男性型であり、ハンドルはRED。
暫く前にこの仮想空間で知り合い、お互いに組み手をするようになった相手だ。
組み手。
仮想空間バトルには【組み手モード】という機能があった。
特にルールはなく、ユーザー同士が決めた設定で納得のいくまで闘うことが出来る。いわばプラクティス(練習)モードだった。
だが、ゲーム性の高いほかのモードよりも実戦に近い設定が出来、二人は好んで組み手をしていた。
特殊設定は一つだけ。異能禁止である。
異能を禁止し、お互いが本来持つ格闘能力だけの実戦式組み手。
それが二人の求めるものであった。
すでに数度の攻撃の応酬を終えて、にらみ合いが続く。
やおら、CATは思う。
お互いに素性を知らないのに、ここまで出来る人と会えるなんて、ありがたいことですね――。
二人の出会いは偶然だった。
CATが組み手モードで募集をしていたところにREDがやってきたのだ。
最初からCATは異能禁止設定で募集していたために人はほとんど来なかった。異能が普通にあふれているこの街においては異能禁止の設定は珍しいものであったのだ。
それゆえCATもREDもお互いの異能は見たことがない。その上でハンドルとアバターである。お互いの素性はさっぱりであった。
この状態で素性を聞くのも野暮ですしね――。
相手もそう思うのか、REDから素性を聞かれたこともなかった。
と、REDが動きを作った。
こちらへ近づく動き。
にらみ合いの終了を告げる動きだった。
REDが上半身の構えを崩さぬままに、CATへ歩き始める。
その歩みは微塵の迷いもない。素人目には極普通に歩いているようにしか見えない。
CATはやや腰を高く上げなおし、左右の足にかかる力を軽めに調節した上で力をいつでもかけられるように構えなおす。
CATの戦闘スタイルは空手のようなそれである。
身体が小柄で力が強くはない分を、洗練しきった動きでカバーする戦い方だ。
一方でREDの戦闘スタイルはよくわからないものであった。
組み手だけではなく、いろいろチャットで話す間柄ではある。しかし、REDは自分の戦闘スタイルについてはお茶を濁すことが多かった。
ある程度の推測は、できるのですけど――。
CATとて格闘家だ。組み手を重ねれば相手のスタイルも見えてくる。
CATの推測では軍隊格闘術の遣い手であると見えた。しかしそこには、らしい、という文言がつく。
CATは軍隊格闘術の全てを知っているわけではないが、どういうものかは知っている。
だが、REDのそれは軍隊格闘術と言い切るには難しいものだった。
たぶん、軍隊格闘と言ってもその中で特殊なものなのでしょうね――。
そんな思いを得ている間に、REDが危険と判断される距離まで歩み寄ってきた。
そしてその歩みを――。
やはり止めずに歩きますか――。
予想通りだった。
この”歩く”という動作はREDの得意とする技のようなものだった。
REDの歩きには隙がない。
素人目にはただ歩いているようにしか見えない。しかし、極端に無駄のない動きで距離を詰めている。そして、無駄のない歩みはそれだけで一つの技としてCATに襲い掛かるものであった。
無駄がなさ過ぎて迂闊に手を出せない。しかし相手はそれをいいことに近づいてくる。
やっかいな技です。さて、今日はどのような答えを出しましょうか――。
REDは毎回この技を使っている。
それはまるで解けない問題を出来の悪い生徒に意地悪く出題し続ける教師の様でもある。
ゆえに生徒は答えを出す。
その時に出せる最大の答えを、先達の胸にぶつけてゆくのだ。
CATは答えをぶつけた。
まず左手を突き出す。
左の半身(はんしん)を突き出し、半身(はんみ)に構えた状態から、単純に突き出しただけに過ぎない。ただし、掌で相手の視界を覆う。
人間の視界は万能ではない。掌一つでも小さな死角を作り出せる。
その死角は相手の判断に僅かでも隙を生むには十分なものとなる。
すでに格闘の間合いまで接近していたREDにとって、掌一つが作り出す死角は意外にも大きく感じられる。
REDの歩みに変化は見られない。しかし、確かに隙は生まれた。
判断というものを下すための、ほんの僅かな隙だ。
瞬間、CATは左手を高速で”引き絞った”
できる限りの速度で、できる限りのところまで、左手の甲を顔に近づけるように肘を曲げて、引き絞る。
CATの身体が回転する。引き絞った左手の作り出した回転力だ。
同時に、上げていた腰を下げて回転力に重力を加える。さらに両足を軽く浮かせて下半身自体を回転方向に併せて、やはり急速に回転させた。
下へと落ちる重力と、下半身の弾むような回転力が加わる。
高速の全身運動による回転。
それによって生み出されるのは全ての力を込めた右の拳。
すでに腕を伸ばしきるには難しい位置まで歩み寄っていたREDに突き込まれる、縦に握られた高速の右拳だ。
伸ばしきれない腕はしかし、インパクトの瞬間に力を込めて”止められる”。
インパクトの瞬間に力を込めることで、生まれた全ての力がその場で爆発を起こす。そして起きた爆発は伸ばしきらなかった腕の分だけ推進力を持つ。
衝撃が駆け抜けた。
見えない打撃の力が、しかし確実にREDを襲った。
通常の人間であれば体内を駆け抜けた打撃の力によって内蔵を揉まれ、その場に崩折れるはずだ。
しかしREDは動じない。ダメージを受けた様子がなかった。
CATは見た。自分の右拳を。
そして、その右拳を”包むように重ねられた”REDの両手を。
REDの両手はCATの打撃の力を相殺していた。
CATは理解する。REDがこちらの打撃を相殺できた理由を。
”歩き”だ。
隙も淀みもなく、”完璧な歩行”を続けた結果、歩いた距離だけの運動エネルギーを生み出し、それを無駄のない動きを続けることで溜め込んでいたのだ。
そして重ねた両の手に体重を押しかける要領でその全運動エネルギーをそこに集中して掛けた。
結果、CATの打撃を相殺したのだ。
理解したときにはすでに遅い。
CATの右拳はすでに”掴まれた”状態だ。
軍隊格闘において掴むということは相手をコントロールするということに他ならない。
相手の身体に接触しただけで相手の自由を奪い、自分に有利な状況を作る。
それが軍隊格闘術だ。
掴みを抜けるための捨て身の体術は、すでに一度見せている。
高度な技術を持つ格闘家に技を見せるということは、自分の選択肢をその時点で一つ減らしているのと同じだ。
同じ技は見切られる。
ゆえに。
CATの視界が反転する。
地面に叩きつけられると同時に、叩きつけとは別の衝撃。
REDの拳が的確に胸の下、横隔膜に突きこまれていた。
CATの負けだ
CATの視界の隅で、四十八勝五十一敗というカウントが表示された。
●
Join a chat room.
●
システム:CATさんが入室しました。
システム:REDさんが入室しました。
CAT:おつかれさまでした^^
RED:おつかれさまです^^
CAT:やっぱりREDさんは強いですね。
RED:CATさんも強いですよ。対戦成績は三勝しか差がありませんから。
CAT:それでもやっぱり勝ち越せていないのは事実ですよ。ちょっと悔しいですね。
CAT:それにしても、REDさん少し変わりました?
RED:変わった?
CAT:少し前から思い切りがよくなったというか。そんな感じがして。
CAT:勝ち越しが安定したのもその頃からですし。
RED:そうですね。少し変わったのは確かかもしれないです。
CAT:やっぱり。
CAT:何があったか聞いてもいいですか? その、私も参考になるかと思って。もちろん組み手の気持ちの切り替えとか、そういうことです。
RED:ある人を好きになりました。
CAT:おお。
CAT:それは恋とか、そういう意味ですか?
RED:そうですね。
RED:今まで恋をしたことがなかったので、恋と言っていいのかよくわからないんですけど。
RED:でも、好きになったのは確かですよ。
CAT:なるほど。
CAT:確かにいい意味での心の切り替えというものが起きると変われるのかもしれないですね。
CAT:実際にREDさんの動きはよくなっているわけですし(笑)
RED:そうですね。好きになった時に、世界の見え方が変わったような気がしました。
CAT:そこまで好きになれるなんて、いいことだと思います^^
RED:ありがとうございます^^
RED:あの、
CAT:?
RED:突然ですみません。CATさんは女性ですか?
CAT:え?
RED:いえ、実は好きな人のことで相談に乗ってもらいたくて。
CAT:ああ(笑)
RED:CATさんが女性なら、女性から見た意見がもらえるかなと思ったんです。
CAT:なるほど(笑) 私は女ですよ^^
RED:すみません、こういう場所で聞いてしまって。
CAT:いえいえ^^ 相談、聞きますよ。
RED:ありがとうございます。
RED:好きにはなったんですが、まだ気持ちは伝えていなくて。
RED:今の仕事が一段落したら伝えようと思っていたんですが、いきなり言うのは相手も困るんじゃないかと思って。
CAT:なるほど。
CAT:相手の方とは、今までどういう関係だったんですか?
RED:うーん、家族、みたいな関係でしょうか。
RED:血はもちろん繋がってませんけど、それだけ仲はよかったと、僕は思ってます。
CAT:そうなんですか。うーん。
CAT:私の意見になりますけど、いいですか?
RED:お願いします。
CAT:きっと、告白されるのはその人にとっても嬉しいことだと思うんです。けど、
RED:けど?
CAT:戸惑うとも思うんですね。
RED:戸惑う・・・。
CAT:家族みたいな関係だからこそ、戸惑うんじゃないかと思います。
RED:どうしてでしょう?
CAT:やはり、関係が変わってしまうので、その人が変わってもいいと思えなければすぐには答えを返せないと思うんです。
RED:なるほど。
CAT:気持ちを伝えてもらえて嬉しくはあると思いますが、その人のほうで準備ができていないとやはりそうなってしまうかもと。
CAT:私は思います。
RED:じゃあ、どうすればいいんでしょうか?
CAT:うーん。
RED:・・・。
CAT:相手の方次第だと思うんですけど、準備ができていないなら、待つのもいいかもしれません。
RED:待つ、ですか。
CAT:ええ。
CAT:きっと相手の方も何かをきっかけに現状を変えるときが来ると思います。その時はREDさんの気持ちを受け入れることが出来ると思うんです。だから、
RED:だから?
CAT:相手の方が変わろうとしたとき、それを手伝ってあげればいいんじゃないでしょうか?
RED:手伝う、ですか。
CAT:ええ。
CAT:先にREDさんが変われたのだから、相手の方も変われるはずです。だから、その方を手助けしてあげるのが、一番いいんじゃないかと思います。
RED:なるほど。
RED:うん。
RED:確かにそうかもしれませんね。僕は彼女のおかげで変われたから、僕も彼女を変えてあげたい。確かにそう思いますし。
CAT:なんだか私の個人的な意見でしたけど、参考になりました?
RED:はい。ありがとうございます^^
CAT:よかった^^
システム:午前0時をお知らせします。
RED:あ、もうこんな時間ですね。
CAT:ああ、すみません、回答が長かったですね^^;
RED:いえ、僕から聞いたんですし、参考になったので。
RED:ありがとうございました^^
CAT:参考になってよかったです^^
RED:じゃあ、今日はこのあたりで失礼します。
CAT:はい。またよろしくお願いしますね^^
RED:はい、こちらこそよろしくお願いします。それでは^^
システム:REDさんが退室しました。
●
システムが終了し、視界が暗くなる。
網膜に映し出されていた情報は全てブラックアウト。感じるのはヘッドセットの重さだけだ。
ヘッドセットを外す。
レヴィは目を開けた。
目の前には薄暗い空間。ヘッドセットの通信アンテナの光を受けて、目前に置いてある小型の端末についているアンテナ、その先端が光っている。
ネットカフェ。そこはそういう類の場所だった。
狭い個室の中で音を立てぬよう、気を遣って椅子から立ち上がり、自動販売機コーナーへ向かう。
コインを入れて数瞬迷った後、フルーツ牛乳をプッシュ。
落ちてきた紙コップに注がれていくフルーツ牛乳を見ながら思う。
今日はいいことがあったから、フルーツ牛乳――。
普通の日はコーヒー牛乳、いいことがあった日はフルーツ牛乳。
銭湯ではなくても、このルールは外さない。
注ぎ終わったフルーツ牛乳を取り出し、一気に飲み干す。
しびれるような甘さの本流。
疲れた頭には丁度いいように思えた。
ネットカフェを後にして、夜に身を滑り込ませたレヴィは思う。
シエル・ロアのゲームはもう終わる。しかし――、
僕のゲームは、まだこれからなんだ――。
シエル・ロアの行く末を決めるゲームはもう、終わりが近い。
しかし、自分の未来を決めていくゲームはまだ、ずっと続いていく。
焦ることはない、まだまだ続くのだから。
その中で、今度は自分がリーンの役に立てたらと、そう思う。
その時にこそ、自分の気持ちを伝えることが出来るのだろうとも。
そして、気持ちを伝えた後には、また新たな人生のゲームが始まるのだろう。
レヴィは思う。
わくわくすると。
これから先、永遠にゲームは続いていく。
自分は全ての意味で、自分の生が終わるまでその感動を味わってゆくのだ。
楽しさも、悲しさも。不幸も、幸福も。
それら全てだ。
少しだけ暑さの和らいできた夜の中を、レヴィは歩く。バーに向かって。
まずはこの先の、全ての人生に乾杯しようと思った。
きっと今日のビールは格別旨いに違いない。
そう思って、夜風を切った。
●
「ああ、やっぱりここでしたね」
バー、『QUIET』。レヴィが懇意にしているバーに、珍しい声が響いた。
「あ、猫?」
カウンター席、振り向いたレヴィの隣りに珍客、リーンは腰を降ろした。
「どう、したの?」
驚くレヴィに、リーンはいつもの笑顔で答えた。
「近くをぶらついていたので。ひょっとしたらお人好しさんがいるんじゃないかと思いまして」
レヴィはこのバーの常連だ。しかし、リーンはほとんど来たことがない。少なくともレヴィの記憶では一度もなかったはずだ。
「何を飲まれますか?」
マスターが静かに聞いた。
「お酒はあまり知らないので、何か飲みやすいものをお願いします」
「かしこまりました」
リーンの注文に、マスターは流れるような手つきでカクテルを造り始める。
その姿を目で追いながら、レヴィは切り出した。
「ねえ」
「なんです?」
一呼吸。はっきりとした声を出して言う。
「リーンに伝えたいことがある」
どもらなかった。
それは驚くべきことで、思わずリーンが振り向くほどだった。
しかし、レヴィは言う。
「でも、今、は、言わない」
その言葉はいつもの彼であり、しかし、内容は理解しがたい。
暫し考えてしまう。だが、リーンは不意に笑った。
「変なお人好しさんですねえ」
笑顔。
いつもどおりの笑顔だ。
リーンは笑顔を選択した。
理由は単純だ。
レヴィもまた、笑っていたから。
「お待たせしました。スカイダイビングです」
リーンの手元に、マスターがカクテルを差し出す。
澄み切った青い空を思わせるそのカクテルは、夏を感じさせる。
「乾杯、しましょう?」
リーンはグラスをレヴィに差し出した。
レヴィは答えて、ビールの入ったグラスを差し出す。
「乾杯」
二つのグラスが触れ合った。涼やかな音が、ほんのかすかに耳に響く。
レヴィは思う。
今は違うお互いの心が、いつか僅かでも触れ合えるようになればいい。このグラスのように。
そのために、自分は彼女の傍にいようと、そう思う。
自分を変えてくれた、大切な人のために。
傾けたグラスから喉に流れるビールは、ホップが効いて爽やかな苦味だった。
END
戻る