―湯気の向こうに先は見えるか―


登場人物
問題・拠り所をなくすとはどういうことか(配点:未来)
レヴィ:きっと餓死する
ユンファ:たくましく生きていく
黒狸(ヘイリー):飄々と生きていく
環(めぐる):極端そうで怖い
ファウスト:怖い其の二

 

 ダッフル・レヴィは頭が弱い。
 そんな彼でも物事を考えるということが、無いわけではない。


 ●


 かぽーん。
 最早ここにその音を擬音語として書き込むしかないくらいに典型的な音が鳴った。
 床は白いタイル張り。壁もタイルだが奥のタイルはモザイク画になっている。どこもかしこも濡れていて、充満した湯気が心地いい。広く、暖かな、湯を湛えた空間。
 銭湯だ。
 誰も彼もが裸で集い、全てを脱ぎ捨てて皆等しくなる場所だ。等しくないのは性別くらいだろう。
「――」
 あ、という言葉に濁音をつけたような、そんな声を出す。
 長めの黒髪に黒い双眸の青年。湯船に浸かっているために他の特徴がなくてわかりづらいが、ダッフル・レヴィその人だ。
 広い湯の中で四肢を伸ばし、軽く身震いする。
 誰がどう見ても彼は湯を堪能しているように見える。
 しかし彼は、堪能しながらも頭の中では思考をめぐらせていた。
 今日飲むべきは、コーヒー牛乳かフルーツ牛乳か――。
 偉くどうでもいい内容だが、レヴィにしてみれば真剣な問いだ。
 なぜならそれは、レヴィにとってその日がどのような日であったかを決定する要素を持っているからだ。
 普通の日ならコーヒー牛乳。いいことがあった日はちょっと贅沢してフルーツ牛乳。
 それがレヴィの習慣だった。


 ●


 今でも覚えている。
「フルーツ牛乳は本物のフルーツを使った贅沢品だよ!」
 レヴィはこの銭湯の番台を牛耳る背の高い褐色の肌の女にそう言われた。
 ユンファという名前のその女は単に嘘を言ってレヴィにフルーツ牛乳を売り込んだに過ぎないのだが、レヴィはいたって真面目に嘘も冗談も受け止めてしまう性格だ。
 ゆえに迷う。
 フルーツ牛乳が贅沢品ならばきっかけを作らないと飲むべきではないと、そう思う。
 だからレヴィはその日を振り返ってどちらを飲むか決めるのだが、今日は別段何もない一日だったので判断材料が少ない。
 やっぱり今日は、コーヒー牛乳――。
 そう考える。
 半ば意思決定しかけたその時、闖入者たちは現れた。


 ●


 ――歓迎、紅龍会御一行様。
 番台の大女は真面目に考える。真面目にそんなことを書いた札でも下げた方がいいのではないだろうかと。
 女にしては背が高く、褐色のたくましい体つきを狭い番頭台に押し込めて、大女、ユンファは不安に駆られていた。
 ここはユンファの牛耳る銭湯だ。ユンファ自身は紅龍会の所属だが銭湯は誰にでも分け隔てなく開かれた場所だ。
 ゆえに今まで一般人や別組織の人間も利用しているのだが……。
 何で今日に限って紅龍会のメンバーが固まって利用してんのさ――。
 現在男風呂には紅龍会の構成員が四人固まって入っている。別組織の人間同士が気付く気付かないに関係なくともに入ることはあるが、同じ組織の人間が集まって入るのは珍しい状況だ。
「……何か変なことにならなきゃいいけど」
 思わず呟き、不安が増した。なんせ風呂には一般人も居る。自分と同じ組織とはいえ下手なことをされては敵わない。
 ――注意を払うべき、だね。
 ユンファは曇りガラスの扉の向こうに意識を向けた。


 ●


 風呂場への闖入者は三人の男だった。
 三人とも若く、付き合いの浅い深いはともかく、同じ組織ということもあって顔見知りではあった。
 ゆえになんとなく、レヴィを含めて集まってみたりした。
「いやあ、しかし奇遇だね。偶然銭湯で男ばかり顔見知りと集まるなんてねえ。あ、俺は体を流した後に軽く湯に浸かって温まってから体洗って、最後にまた湯に浸かるんだけどさ。じゃないと風引くんだよね」
 灰色に近い銀髪の優男が率先して喋る。
「相変わらずお前はぺらぺらとよく喋るよなあ。少し落ち着いたら?」
 薄めの緑髪の、まだ少年といっていい年頃の男が慣れた調子で返した。
「おかしいな、これでも落ち着いてるつもりなんだけどなあ」
 優男の反論、しかしそれは後ろだけ跳ねた短い黒髪の青年に遮られた。
「そんなことどうでもいいから石鹸取ってくれる? 右手側だから取れないんだよ」
 見れば青年は右腕にギプスを嵌めてビニールでくるんでいる。
 レヴィたちは今、横一列に並んで体を洗っていた。別に顔見知りだからといって行動までシンクロさせることはないのだが、喋っているうちになんとなくそうなってしまう。
 レヴィは体を洗いながら、洗い場に座る面々の名前を思い出していた。意識しないと他人の名前はすぐに忘れる。悪い癖だ。
 ええと、奥に座ってる人から――。
 湯船を左手、入り口を右手にして座っている四人を湯船側から順に思い出す。
 一番奥、優男の黒狸。
 二番目、緑髪の少年、環。
 三番目、後ろ髪の跳ねた青年、ファウスト。
 そして四番目、レヴィが座っていた。
 全員無事に思い出せたので胸を撫で下ろす。名前や顔を思い出せずにトラブルになるのは、ちょっと面倒くさい。
「レヴィ?」
 ファウストに言われて気がついた。ファウストの右側は自分だ。つまり石鹸。
「あ、うん、ご、めん」
 いいつつ石鹸をファウストに渡す。
「ファウストはギプス結構長いよな。辛くないの? それ」
 黒狸が聞く。そんなこと聞かなくても答えはわかっていると思うのだがこの男は聞くタイプの人間だった。
「わかりきってるだろそんなの」
 環がファウストよりも早く答えた。言葉がやや尖っているように聞こえるが嫌っているとか嫌味とか、そういうわけではない。
「まあ、環がフォローしてくれるからそんなに問題は無いんだけどね」
 ファウストが付け加える。
「ああ、仲いいね君達。体も洗ってあげてるもんねえ。いやいや、俺見てて眩しいよ」
「変な風に言うなよおっさん」
「環もいちいち取り合わなくていいじゃないか」
「うわー、お兄さん傷つくなそれ!?」
 レヴィは思う。
 ――にぎやか、だよね。
 いいことだ。少なくとも辛気臭いよりはましだろう。そういうことにしておく。
「環、背中、ちょっと洗ってくれる?」
「お、オッケー」
 環がファウストの背中に回る。
「背中に回るって、ちょっといやらしいよね。字面的に」
 黒狸がいらんことを言った。
「俺はそんなつもりじゃないぞ!?」
 言いつつ環は顔が赤い。
「あっれこの人顔赤いよ? 男同士なんだから気にしなさんな。さあほら、ファウスト君が待ってるよ?」
 黒狸が饒舌なのはいつものことだからか、それとも逆襲のつもりなのか。
「環、いいから背中洗ってよ」
 半ばファウストはげんなりしていたが。
「じゃあ、俺腕洗ってやるから! レヴィが背中洗ってやってくれよ!」
 急にお鉢が回ってきた。
「ぼ、僕?」
 なんだかわけがわからない。環は恥かしいというより意地みたいなものなのだろう。
 レヴィは恐る恐るともいえるようなていで、ファウストの背中に回った。


 ●


 なんだか風呂場が騒がしい。
 ユンファはちょっと気になった。不安という意味で。
 なので脱衣所に誰も居ないことを確認すると、曇りガラスの扉に耳を寄せてみた――。


 ●


「ど、どう?」
「ああ、いい感じ。う、上手いなレヴィ。あ、もっと激しくして」
「おお、凄いな。激しいプレイだね」
「つ、次、俺も頼んでいいかな?」


 ●


 ユンファは光の速さで扉を開けた。


 ●


「この馬鹿ども――!! うちは健全な風呂屋だ! ハッテン場じゃないんだからね――!?」
 扉が開いた。しかしそれは誰の目にも見えぬ速度で、つまりは光速。
 ユンファは思わず風呂場の中に踏み込んでいた。下駄を脱いで裸足で入れたのは奇跡だ。
「へ?」
 思わずユンファを見上げる男四人。何が起きたのか理解が追いつかない。
 ユンファの目に入ってきた光景は、つまり普通に背中を洗ってやってるという、そういう光景で。
「……え?」
 ユンファは思わず止まった。むしろ男湯の時間が止まった。
 かぽん。
 誰も動かない空間に音が響く。
 しかし次の瞬間、男四人がまったく同じ口の動きで言葉を作る。
「いやん、えっち」
 その瞬間、ユンファの中で何かが切れて、爆発した。


 ●


 脱衣所。そこは第二の天国かもしれない。
 火照った体に冷えた空気が心地いい。扇風機など快楽すら覚える。
 レヴィたち四人の紅龍会構成員は、一様に脱衣所で冷やしていた。
 頭のこぶを。
 先ほどの風呂場の騒動で切れたユンファが殴りつけて出来たものだった。
 こぶは痛い。だが冷やすと結構気持ちがいい。
 レヴィは思った。片手に冷却用の保冷剤を握り締め、こぶに当てながら。これはこれで気持ちがいいと。なので呟く。
「これは……、新手、の、サービス」
「いや絶対違うわそれ」
 素で黒狸が突っ込む。
 殴った当のユンファはというと、ごく普通にいつも通り番台に上がって接客している。曰く。
「紛らわしいことをする方が悪い」
 そんな状況だった。
 四人は半ばぼうっとしてこぶを冷やしていた。脱衣所は先ほどとは打って変わって人の出入りが多くなっている。今が一番盛況な時間帯だろう。
 ふと、人々の話し声が耳に入った。


 ●


「もうすぐ、例のゲームってやつが始まるんだって?」
「ああ、表向き人死には出さないらしいが、どうなるかわかったもんじゃないな」
「どうなっちまうのかねえ、この街は」
「少なくともただじゃすまねえと思うがよ。負けた組織は割り食うだろうな」
「だろうなあ。消えてなくなっちまうような、そういうところも出てくるかも知れねえしなあ」


 ●


 消えてなくなる。
 レヴィは思う。つまり、組織そのものがなくなることだ。そうなればどうなってしまうのか。
 ――それは、困るなあ。
 それ以上の考えが上手く浮かばないが、自分にとっては難しいことになるばかりで困ってしまうだろうと思う。
 他の皆はどうなんだろうと、そう思い横目に三人の構成員を見てみた。
 ――うん、皆しぶとそう。
 きっと彼らは自分と違ってたくましく生きていく気がする。
 ユンファをちらりと見る。銭湯の番台で威勢のいい接客という、よくわからない行為に及んでいる彼女は、見るからに問題なさそうだ。きっと紅龍会がなくなっても問題などないのだろう。
 ――頼りがいがあるよね。むしろ頼るべき?
 きっと紅龍会が無くなったら自分が頼る所は無くなるだろう。他の組織や人々からすれば自分は疎まれこそすれ、受け入れられることは無いはずだ。
 レヴィの中で結論が出る。つまり。
 負けたらユンファさんに世話になろう――!
 なんだか光明が見えた気がする。気になるのはペットの持込が可能かどうかだ。リーンを連れてきても大丈夫だろうか? そんなことを考え始める。
 大体考えが固まった所で、意を決してレヴィは立ち上がった。
「レヴィ?」
 ファウストが問いかける。こちらの表情が気になったのだろう。しかしレヴィは構わずにユンファの元へ向かった。
「ユンファ、さん――」
 接客していたユンファが振り向く。
「ん? なんだい?」
 頭頂部近くに見事なたんこぶを腫らしたタオルを腰に巻いただけのレヴィが、真剣な表情で言った。
「もしも、のとき、は、お世話に、なります」
「は?」
 ユンファは言われた意味が分からない。その上あまりにもその滑稽な状況はいかんとも受け入れがたい。
「――お世話に、なります」
 大事なことなので二度言ってみた。
「あ? ああ、ええと、う、うん?」
 疑問系だが、二度言われてしまったのでなんとはなしにうなずいてしまうユンファ。
 環とファウストも顔にはハテナが浮かんでいる。ただ、黒狸だけは何かを悟ったらしく声を殺して笑っていた。
「フルーツ、牛乳、くだ、さい」
 流れについていけないが、とりあえずフルーツ牛乳をレヴィに出した。
 ――今日は、将来が確保されたのでお祝いのフルーツ牛乳――。
 黒狸以外の誰もそんなことはわからないのだが、とりあえず自分で祝うことにした。
「変な奴だねえ……」
 ユンファはとりあえずそう呟く。他に言うことというか、言えることもない。
「よかったじゃないか、ユンファちゃん、将来の従業員が増えたよ」
「へ? そうなのかい?」
 黒狸の言葉に、ユンファはしかしよくわかっていない返事だ。
 しかし、環とファウストは心得たらしく。
「あー、レヴィも守銭奴の部下になるのか」
「背中洗うの上手かったし、三助で流しでもやればいいんじゃない?」
 レヴィは三助という言葉を知らなかったが、とりあえず自分向けの役職なのだと理解した。なので告げる。
「――お世話に、なります」
 流石に三度目なのでユンファもようやく理解した。理解したので思う。
 ――ちょっと面倒くさい。
 だが、レヴィはいたって真剣だし、もしものときという条件付だ。そういう状況だったとして無碍にするユンファではない。
「ああ、ああ、わかったわかった! 銭湯の神のユンファさんだ、もしものときは任せておくれ!」
 半ば投げやりである。しかし付け加える台詞は忘れない。
「ただし! もしものときだけだよ! 出来る限り自分で生きてみな! 何もしない奴をただで助けるようなわけには行かないからね!」
「ユンファちゃん、太っ腹だね。さすが神様だ」
「あんたは茶化してないで服を着なよ! 風邪引いても知らないよ!」
 はいはい、と軽く黒狸は受け流しつつ。
 ――ゲームが始まるってのに、平和だねえここは。
 なんだか急に自分が老けたような気がして、頭を振る。いかんいかん、俺はまだ若い。
 レヴィはフルーツ牛乳を一気飲みする。安っぽい甘さが喉を駆け抜ける。
 そして思った。
 贅沢品はいい。気分もよくしてくれる。これぞ贅沢――!
 大分間違っていたが、満足はしていた。満足の理由が味ではなくて、仲間との時間の共有によるものだということは理解していなかったが。
 もうすぐゲームが始まる。
 しかし、どうにかはなるだろうと、レヴィは思う。
 勝とうが負けようが、皆が変わることはないのではないかと、そう思うのだ。

 

END


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