―夢の形―
登場人物
レヴィ:ブタ。彼の人生そのもの。
アニュス:フルハウス。過去がわからないからこその。
酒。味のついたアルコール。
人が酒を飲むのに理由など要るのか。
●
「じゃあ、レイズな」
声が響く。
やや暗め、不健康ではないにしても多少暗さを感じる、そんな場所に声は響く。
照明は安っぽい蛍光灯、壁は白いがそこまで清潔ではない。そして狭さと、なにより窓がないのが暗い原因だ。
声の響きの元には一人の青年。黒い短髪、だがやや前髪が長め。着る物も黒いスーツ。緑の双眸に、やや笑ったような表情を宿した青年が椅子に座っている。
そして声が向かった先にも一人の青年。テーブルに向かい合って座る彼は長めの黒髪に赤いダッフルコートを着込んでいる。
青年は迷った挙句、声を発した。
「さ、サレン、ダー……」
レイズとはつまり賭けのチップを釣り上げること。そしてサレンダーは一定のチップの払いだけで済ませる代わりに勝負を降りる。
つまり彼らはポーカーをしていた。
「お、レヴィ。大分賢くなったじゃん」
賢くなった。普通に考えると馬鹿にしているような台詞だが、彼、アニュス・デーイは素直に言う。そして馬鹿にしているわけでもなかった。
「アニュス、は、……大きな嘘、ついてない、から」
レヴィの台詞に、アニュスはよく見ていると、そう思った。
二人のやっているポーカーは、その辺のおふざけよりももっとちゃんとしたルールのものだ。
基本のルールは単純。チェンジは一回まで。勝負はトランプ一箱使い切るまで。一回のチェンジと、すでに使われた捨て札の山からお互いの手を想像してチップの釣り上げあいをする。もちろんサレンダーも可能。
つまり、どこまで記憶力がいいかと相手の出方を読めるかが勝負だ。
ここで重要なのは嘘を吐きすぎないこと。嘘は吐けば吐くほど相手に読む材料を与えてしまう。だから嘘の吐き方は重要だ。嘘吐きの嘘はすぐにばれる。世の常だ。
二人はお互いの手札をオープンにする。
レヴィはブタ(役なし)。アニュスはフルハウス。
「いや、嘘云々以前にブタじゃんか!」
アニュスは突っ込んだ。
●
旨い。
アニュスは素直な感想を思った。ここまで旨いものを作るとは、人とはなんと素晴らしく、なんと罪深いのかと。
罪深い。なんせ飲み過ぎれば身が破滅することもあるものだ。
酒である。
アニュスはカクテルグラスを傾ける。やはり旨いと思った。
飲んでいるのは焼きりんごのマティーニ。マティーニとはジンという酒をベースに作ったカクテルだ。焼きりんごを一切れすりつぶしてペーストし、マティーニに合わせたこのレシピはアニュスがレヴィとともによく訪れるバーのオリジナルだ。
つまりは今二人でいるのがそのバーだ。
『BAR
Quiet』。シックな店内にムードのいい照明と程よい音量の音楽。オーセンティックとまでは行かないが、それほどの雰囲気を持つ大人向けのバーだ。
中央街のこのバーで、アニュスとレヴィの二人はカウンターに座って飲んでいた。
マティーニを口に運ぶ。
まず感じるのはマティーニの味そのものだ。アルコール特有のしっかりとした苦味とも旨みとも取れる味。だがその後確かにりんごの酸味と甘さが口に広がる。
……旨いなあ。
三度思った。
世の中には酒の味や価値が分からない奴がいるといい、実際にそういう人種に会ったこともあるが。
なんともったいない。
心の中で一人ごち、これは酒飲みなら誰でも思うんだろうなあなどとも思う。
いやあしかし、これで半額しか払わずに済むなんて……。
余計に旨いと、アニュスは思う。
先ほどのポーカーの勝負はいつもレヴィと飲みに行く前に紅龍会の事務所で行うもので、負けたほうが飲み台の三分の二を払うというものだ。
つまり勝った方がほぼ半額で酒を飲むことが出来る。
そしてアニュスは今のところ負けが極端に少なかった。
「カードゲームで俺に勝とうなんて10年早いよな」
思わず口から出た。
「ど、うした……の?」
隣りのレヴィが聞いてくる。
「ああ、いやあ。酒が旨いと思って」
ああ、とレヴィはうなずいた。
アニュスはレヴィを見る。素直だなあと思いながら。そして、だからポーカーに勝てないんだろうなあとも思う。
レヴィはビールを飲んでいる。当然ちゃんとしたバーなのでジョッキではなくグラスだし、中身も少し変わっている。
レヴィが飲んでいるのはIPA、インディアンペールエールだ。謂れを言えば長くなるが、単純に言うとホップが効いて苦味の強いビールだ。シエル・ロアの地元ブランドのものだった。
しかし、目を引くのは飲んでいる酒ではない。レヴィの目の前の皿だ。そこには大皿があり、山盛りのジャーキーが載っている。通常ではありえない量だし、バーでこれというのもどうなのかという疑問も湧く。
だが、アニュスにはいつものことだ。バーテンすらも。
「IPAの苦味にジャーキーの塩味は合いますからね」
と、笑顔で慣れたものだ。
アニュスもジャーキーをひとかけら失敬する。
程よい塩味、そして普通のジャーキーからは思いつかないジューシーさ。独特な味で、これも旨かった。普通ジャーキーは脂身の部分が余計なので切り落としてしまうが、ジューシーさを保ったこのジャーキーは脂身の部分も程よい甘さがあって旨い。
話によればシエル・ロアのある生産者がたった一人で作ったもので、世界的なコンテストでも認められたことがあるという。メニューには『マエストロ・伊庭のジャーキー』と書かれている。多分、伊庭が生産者の名前だろう。
話を聞くだけなら結構なもののように思えるが、レヴィは無造作に口に放り込み、IPAを流し込む。
アニュスは酒が好きだが、他人に強要するようなタイプの人間ではない。だからレヴィの飲み方はそういうものであると理解して、それで旨いと思うならいいんじゃないかと思っていた。
なにより酒飲みは一緒に酒を飲んでくれる人間が好きになるものだ。それは酒という趣向は違えど共有の物を持ってお互いを理解することであり、アルコールの作用によって増幅されたそれで人は満たされるのだ。
だから、アニュスにとってはレヴィこそが本当の酒の肴であり、レヴィもまたそうであると思っていた。
楽しい。
そう感じる。ただアルコールを口に運ぶだけだが、確実に人と時間と感情を共有していると思う。それは嬉しくて、幸せなことだ。
そしてアルコールが旨ければ最早言うことはないだろう。
焼きりんごのマティーニを飲み干した。レヴィを見れば、やはりIPAを飲み干していた。
「マスター、もう一杯」
次の一杯を頼む。少し迷ったが、やはりカクテルで、スカイダイビングにした。青が鮮やかなカクテルは見ているだけでも気分が良いものだ。
対してレヴィは、皿を眺めてから頼んだ。
「バター、スコッチ、――ホットミルク、に、入れて」
皿はすでに空だ。ビールではないことを考えると落ち着いて飲みに来たということだろうか。
酒が切れれば手も止まり、やや手持ち無沙汰になる。
アニュスはなんとなく思った。
俺は幸せだ。でもレヴィはどうなんだろうか?
アルコールのせいか、妙なことを考えると自分でも思う。だが、ここは大人の雰囲気とはいえバーだ。酒のあるところだ。物怖じすることはないと思った。なので聞く。
「レヴィは、幸せか?」
●
聞いてからアニュスは思った。
聞き方がおかしかった気がする――。
この聞き方では今この場所でなのか、普段からなのかよくわからない。だが。
面白いからいいや。
そう思った。酒のせいだ。そういうことにしておく。
レヴィはややきょとんとした顔だったが、やがて考え始めた。
アニュスは思う、うん、彼には少し難問だったか、と。
レヴィは考える。
――幸せって、なんだろう?
レヴィの人生は、一言で言えば不幸だといえる。
親が死に、人生は狂い、自らも狂ったのだ。その事実がある限り幸せとは決して言えない。
だが、とレヴィは思った。
自分が感じているものは、幸せなんじゃないだろうか、と。
レヴィはすでに壊れた人間だ。人生も、彼自身も壊れている。だが、壊れた彼なりに今を思えば、幸せかどうかはわからないし知らないけれど、楽しいとは思うことがある。
それはいつも自分と一緒にいてくれるリーンと何かを食べているときとか、安心して布団で眠れるときとか。色々だ。
アニュスと酒を飲んでいる今も、楽しいと思う。
感情的にはわからないが、それはきっと幸せなことなのだろうと思う。過去は確かにある。だが、それと今は別の話だ。過去があっても今がいいなら、いいのではないか。そう思う。
だから、レヴィは答えた。
●
「――うん」
アニュスははっきり聞いた。迷ったながらも確かにレヴィはうなずいたのだ。
「そっか」
アニュスは笑った。満足したから。思わず最初に考えたことよりも多くのことを聞いてしまった気がしたが、それはよかったのだと思う。だから笑った。
「お前が飲み友達でよかったよ」
アニュスは心からそう言ってやった。
だが、レヴィはその笑いを見て、ふと思った。
――消えてしまいそうだ。
時折、極稀にだが、アニュスがなんだか消えてしまいそうな気がする。それはレヴィにはわからない感情かもしれない。でもレヴィだからこそ、過去に喪失を味わった、壊れた彼だからこそ感じることがある。
だから言う。
「アニュス、は、いなくならない、よね?」
●
アニュスは言われ、一瞬だけはっとする。
だが、これも考えてみれば実の所、自分で覚悟している感情でもあると思う。
だから答えは言わなかった。代わりに違う言葉を作る。
「要らなくなった酒は、俺の部屋から全部お前の部屋に届けるよう手配してあるからな。全部飲めよ?」
要らなくなった酒。アニュスは酒が好きだ。要らなくなるということはない。だが、手配しているのは本当だ。
酒が要らなくなるとき、すなわちそれは――。
「そんなに、いっ、ぱい――飲め、ないよ」
言われてアニュスは思った。その通りだと。なんせアニュスのコレクションは多い。
「いいよ、飲めなくても、眺めていてくれれば」
その言葉が意味するものはレヴィに届くだろうか。だが、いい加減この話題から離れなければと思う。何しろ全ては自分の勝手であって。
――楽しいと思っている相手にするような話でもないよな。
だから真意は言わない。それを望んでいるわけでもないし。ただ、釘は刺しておくことにした。
「要らないからって、捨てるなよ?」
言われてレヴィは、しかしすぐに返した。
「捨て、ないよ。――アニュス、の、だもん」
そして、レヴィは続けた。
「僕、が、持つの、はいい、けど。一緒に、飲んで、よね」
ああ、ぜんぜん通じてないなこいつ!?
思った。だが、同時にこうも思った。
それもいいのかもしれない。
なんにしても、レヴィはアニュスが居なくなるとは思っていない。そういうことだ。そして、それは――。
「――幸せなのかもしれないな」
●
レヴィは言われた意味が分からなかった。
丁度その時、酒が来た。だから。
「幸せ、なら、飲もう、よ」
そして思う。それでいいじゃないかと。
言われてアニュスは思った。
その通りかもしれない――。
そして自分は少し、無粋だったのかもしれないと。
酒を飲むのには幾種類か理由がある。その際たるものが嫌なことを忘れるということだ。わざわざこの場所に今の話題を持ち込んだ自分は無粋であったと思う。
忘れたいと思い、だからこそそれを持ち出さず、おくびにも出さずに飲む。だからこそ、酒を飲むのに理由など要らないのだ。
「そうだな、飲もう!」
俺が悪かった、とは言わない。それは相手が求める答えじゃないのだから。ただ、飲もうと言う。この時間を共有しようと、そう申し出る。それだけが、酒の席の礼儀だ。
二人は酒を飲む。
ホットとクール、甘いと辛い、まったく逆の酒を飲む。同じ場所で、時間と感覚を共有しながら。
そして二人同時に、思う。
――旨い。
そして、旨いというのは、つまり。
幸せなんだろうな――。
深いことは関係ない、ただ、そう感じるだけでいい。そう思えた。
二人は無言で飲み続ける。ただ、バーテンだけは微笑んでいた。
END
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