闇の中の日常−アンエブリデイエクスペリエンス−


登場人物

十和子(とわこ)
李花(りか)
ヒダリノ


 うふ、くすくす、っふふ。
 相変わらずの闇。夜だというのにろくに電気もつけない部屋。
 Gの事務所だ。
 某国政府の派遣した殺人集団、俗称『政府の犬』。その居城たる事務所は、闇に包まれ家具の影すらない殺風景な場所だった。
 夜の暗黒街を一望できる窓際、その窓辺からねだるような甘い声と息遣いが聞こえる。
 窓辺に寄りかかって暗黒街に目を向けているのは事務所の主たる男、G。
 闇から染み出したかのような黒ずくめの長髪、傷のある強面、しかし穏やかな眼差し。煙草とスカーフだけが白い。
 件の声を発しているのはもちろん彼ではない。
 彼に寄り添う人影が一つ。
 十和子だ。
 魅惑的な浅黒い肌。
 奔放に広がる金髪のロングヘア。
 眼帯は彼女の妖しげな魅力を引き立て。
 ジャラリと鳴るチョーカーから垂れた鎖は刺激的だ。
 そして彼女の特徴たる赤いブルマーは、しかし今は抱えるように上げられた右足に引っかかるだけだ。
 ねだるような甘い声。それを発する彼女は足を絡め、手をGの顔の傷に添え、魅惑的な顔をする。
 明らかに挑発していた。
「ねえ、ボス? 次は僕にやらせてくださいよう」
 十六の少女とは思えぬ仕草。
「血がね? 見たいんです・・・。ふふ」
 対するGは何も言わない。ただその穏やかな眼差しを街に向けるだけだった。
 そして、それを見つめる目が一組。
 闇の中にぎらついている。
 この雌ブタが。
 思う本音は建前に変え、しかしその甘い空気を凍てつかせるごとく声にする。
「報告します」
 ぼさぼさに伸び放題の髪、ブレザーに皮の手袋というややスケ番らしき格好。そして能面のごとき無表情。
 李花。凍てつかせる言葉を放った少女の名だ。
「聞こう」
 振り向きはせず、しかし確実に答えるG。
「っち」
 明らかな十和子の舌打ち。しかしそれは李花を喜ばせる以外の何物でもない。
「実行中の案件、全て片付きました。次の命令をお願いします」
「ふん、ハッチャットマンズは仕事熱心ですね」
 嫌味。それは明らかに十和子からの反撃の狼煙だ。
「あなたのような色情狂と一緒にされたくないですね」
 李花の能面ぶりも負けてはいない。
「女の魅力がない人の負け惜しみですか?」
「ただボスに忠実なだけです。あなたこそ仕事が回ってこない負け惜しみに聞こえますよ」
「能面みたいな顔をして、ボスのことしか頭にないんですね。ひょっとしてファザコンですか?」
 李花の目に僅かな表情が映る。
 怒り。
 Gの子飼いであるハッチャットマンズ。その一人である李花はGに家族のような情を寄せていた。
 図星を指されたのだ。
 だから言ってやった。
 ありったけの嘲りを込めて。
 十和子の一番嫌いな言葉。
「まな板」
 銀閃が煌いた。
 顔の寸前、刺さるまで数センチというところで李花はそれを指で掴んだ。
 棒手裏剣。
 理解したときには十和子がすでに刀を振りかざして目前に迫る。
 手裏剣をフェイントにした絶妙なコンビネーション。避けきれない一撃だ。
 普通ならば。
 このコンビネーションを可能にした十和子も普通ではなかったが、李花もやはり普通ではなかった。
 理解するより早く体が動く。
 棒手裏剣を握りなおし、その小さな金属の塊で刀を受けた。
 普通に受けただけなら手裏剣ごと斬られている。だが、李花は刀の力を受け流し、見事に受け止めていた。
 鍔迫り合い。二人は顔を付き合わせる。
「よく言うね! ファザコンスベタが!」
「幼児体型に言われたくありません」
 力比べは互いに同等。自ら距離を離し、再び互いに切り結ぶ。
 闇の中、刀の煌きと拳の烈風が舞い踊る。
「旦那、いいんですかい?」
 唐突にGの隣から声がした。着物姿の少女、いや、幼女と言うのがふさわしいか。ヒダリノだった。
「・・・ふむ」
 Gはさして驚いた風もなく、やっと戦う二人の少女に目を向けた。
「体を動かしてストレスを発散してるんだ、いいんじゃないかね? 疲れたら終わるさ」
 無茶苦茶な一言だ。
「旦那はいいかもしれやせんがね、組織としては片方に死なれでもしたら大損でやんすよ」
 ヒダリノはGに視線を向ける。
 部下を御するのは上司の務め。
 そう物語っていた。
「わかったよ。止めてくる」
 こともなげにそう言うと、Gは窓辺に張り付いていた体をはがした。
 瞬間。
 一体何をどうしたのか、刀と拳、十和子と李花。人外の斬り合いをしていた二人の間に、Gは割って入っていた。
 左手で刀を、右手で拳を、それぞれ掴みながら。
 Gの動きに気付いた者はいない。人外の二人でさえ。
「お嬢さんたち、喧嘩はそこまでだ」
 お嬢さん。
 その言葉に人外二人は背筋を凍らせた。
 Gは冗談めかした物言いが好きだ。だが、他人を名前で”呼ばない”時、それは彼が本気で物を言っている時だ。
 あわてて刀を引く十和子。李花は辛くも冷静を装ったが冷や汗を隠せない。
「すみません、ボス!」
「行き過ぎました・・・」
 素直に謝る二人。いや、素直どころではない。従順と言って良い。
 従わなければ殺される。
 それは暗黙の了解だった。
「よろしい」
 言葉に込めた意味とは裏腹に、穏やかな顔を崩さないまま、Gは再び窓辺に戻る。
「・・・・・・」
 暫く街を見つめる。
「飲みに行くか」
 不意に言ったかと思うとすぐさま歩き出す。この部屋の唯一の出入り口に向かって。
「三人とも、ついて来い。街へ出よう」
 言いつつすでにドアに手を掛けている。
 あわてて続く三人。
 と。
「そうだ」
 きびすを返してG。
「十和子」
「は、はい!」
 唐突に呼ばれ身を硬くする。
 しかし、次の瞬間彼女の頭に赤い布が被せられた。
 ほんのり暖かい。
「そのまま外に出るわけにもいかないだろう? これを履いて来るといい」
 そう言われて被せられた布を手に取る。
 それは彼女のブルマーだった。
「ぷ」
 笑ったのはもちろん李花だ。
 音がするかと思うほどの形相で睨みつける十和子だったが。
「行くぞ、二人とも」
「あ、はい!」
 Gの声にあわててブルマーを履いた。


 ●


 暗黒街。
 そこはグリーンウッド、悪党の巣。
 古今東西のあらゆる悪が集う背徳の街。
 だが、背徳の町にも一般人というものは住んでいる。
 皆分け有りではあるが、普通の暮らしを営む人間だ。
 バー『バックステージ』。
 そのバーもそんな一般人が営むごく普通のバーだった。
 柔らかな照明。
 シックな店内には無音映画が流れており、余計な音はない。
 慣れた手つきで手早くグラスを拭くバーテンの女性。その後ろには豊富な酒の瓶。
 カウンターに丸テーブル二つと狭かったが、この街のバーにしては良い店だった。
 客の入りはほどほどだ。
 さすがに暗黒街だけあって、客まで上品というわけではなかったが。
 しかし、このバーにはそれがあっているのかもしれない。
 バックステージ、つまりは舞台裏。だが、転じて監獄という意味である。
 酒に囚われた悪党どもの監獄。ここはそんな店なのかもしれない。
 ドアが開く。
 ぎい、という音こそしたが、ベルなどの類はついていない。
 しかし、まだ若いというのにここのバーテンは入ってきた客に気付かないとなどというミスは犯さない。
 客を一瞥。
 一瞬、まさにほんの一瞬だけ目をむいた。が。
「いらっしゃいませ」
 何事もなかったかのように仕事に戻る。
 入ってきた客。Gたちはテーブルを一つ占領した。
 他の客たちも一度だけGたちを見る。だが、すぐに酒の監獄に戻っていく。
 暗黒街において子供連れでバーに入る程度で驚いていたら生きてなどいけないのだ。
 ただ、バーテンと客の間にはその認識に少しだけの差があるのだが。
「何にしましょう?」
 テーブルについたGに向かってバーテンが聞いた。決して大きくはないが良く通る声。静かなバーにぴったりだった。
「バカルディホワイトにライムを切ってくれ。それと・・・」
 次にGが発した言葉は、少々お約束であり、バーに合っているとは言いがたかった。
「ミルク三つ。砂糖も付けて欲しいね」
 バーテンは何も言わない。ただ言われたままに仕事をするだけだ。
 しかし、客は違った。
「おい兄ちゃん、こんな時間まで子守りかい? 大変だなあ!?」
 申し合わせたように周囲から笑い声が上がる。決して上品とはいえない下卑た笑い。
 Gは意にも介さない。ただ、少しだけ口端を吊り上げた。
 ここまではほとんどお約束のようなものだ。別に目くじらを立てるものではない。
 だが、その男は酒がまわっているのか、してはならないことをしてしまった。
 いや、言ってしまった。
「兄ちゃん、カミさんに逃げられたのかい? それともロリコンか? 数寄モンだな! ひっひひひ!」
 ロリコン。
 それはGに対する明らかな侮辱だ。
 この時、ヒダリノは思っていた。
 この男はもう終わりだと。
 ヒダリノの思いを裏付けるように、十和子と李花が席を立つ。
 だが。
「二人とも」
 制止の声。
 Gは二人を止めた。
 止められた二人の顔には明らかな苛立ち。
 侮辱へのそれと、静止されたことへのそれだ。
 男は立ち上がった二人に一時気圧されたが、また調子に乗った。
「なんだ、お父さんは平和主義者かい? 玉ついてんのか? それとも娘とやり過ぎて取れちまったのかあ? ひひひ!」
 二人の怒りは最高潮に達した。無表情な李花でもそれと分かる。
 その時、Gの口端が異様なまでに吊りあがった。
 悪魔のような笑み。
「指一本ずつで許してやれ」
 お預けは終わった。それも最悪の形で。
 フラストレーションが最高潮に達した猟犬が、その鎖を解き放たれた。
 しかも、もっとも惨い指図を受けて。
 解き放たれた二匹の猟犬。その顔には愉悦。
「あ?」
 間抜けな声を男が発したのもつかの間。
 無音の店内に二つの音が響いた。
 一つは無音という名の音。無音だからこそその音は耳に残る。
 もう一つはぐきり、ともぶちり、とも聞こえる音。耳に生理的嫌悪を残す。
 二つのまったく違う音はまったく同時に、そしてまったく同じ効果を男にもたらした。
 それは一瞬の出来事。
 ゆえに痛みは数拍後にやってくる。
「・・・あ? あ、ああ、ああああああああああ!?」
 男の悲鳴。
 血が飛沫を上げる。
 男の両手の”親指が”なくなっていた。
「おおおおおおおおおお!!!!」
 膝を突いて悶える。血の飛沫ごと手を抱えたせいで男は血まみれだ。
「あ、ごめんなさい。間違えて親指切っちゃった」
 血ではなく、男の”油”が付いた刀を拭きながら十和子。
「それにしても、精液くさい指ですね。汚い」
 いかにも汚らしいもののようにもいだ親指を投げ捨てる李花。
 二人の顔は愉悦にまみれている。
 明らかにわざと親指を取ったのだ。
 普通、指を詰めるという行為は小指を詰める。小指がすでになければ薬指だ。親指はなるべく詰めない。
 なぜか?
 親指は手の生命線だからだ。
 親指がなければ人間はその手で物を掴むことができない。力も入らなくなる。
 ゆえに、二人はわざと親指を取ってやった。
 男の両手はもう一生使い物にならないだろう。
 しかし、男にはそれ以前の問題があった。
 いつの間にか男の傍らに立つG。
「ヒダリノ」
「へい」
 言われてヒダリノは、全て承知という体で男の前にそれを置いてやった。
 どこから取り出したのか、それは一巻きの包帯であった。
 しゃがみ、男の耳元でGは言ってやった。
「包帯を巻くといい。巻かなければ出血多量で死んでしまうかもしれないからね。まあ、その手で巻けるならだが」
 男は必死に包帯を巻こうとする。だが、親指をなくした両手では包帯など巻けるものではない。
 その様は酷く滑稽だった。
 おもむろに椅子に座りなおすG。三人の少女もそれに習う。
「さて、面白いショーだ。彼は無事に包帯を巻くことができるのかな? それともこのまま死んでしまうのだろうか? ゆっくり飲みながら見ていようじゃないか」
 Gの言葉は死の宣告に等しい。助ける気など毛頭ないという宣言だ。
 十和子と李花はとても満足そうにショーを見ている。
 この場にいる誰も、他の客すら男を助けようとはしない。
 ここは暗黒街だ。判断を間違えた者は消え行くのみ。
 ただ、この男の消え方が惨いだけだ。
 やがて運ばれてきたミルクに砂糖を入れながら、ヒダリノは思う。
 やはりこの男はもう終わりだったのだ。と。
 思いながら口にしたミルクはとても甘かった。
 叫びの小さくなっていく男を見ながら飲む甘いミルクはなかなか旨かった。


 事務所の隣の部屋はベッドルームになっている。
 部屋の中央に、無駄に大きいベッドが一つ。それだけの部屋だ。
 唯一の家具であるベッドは、しかし、すでに三人の少女に占領されていた。
 一通り飲んで帰って来た一行は、帰るなりベッドに一直線だった。
 ヒダリノ、十和子、李花。三人ともほんのり顔が赤い。
(ミルクしか飲ませていないのだが・・・)
 そう思うが、帰って来たときには李花などろれつが回っていなかった。
 雰囲気に酔ったか?
 Gは煙草に火をつける。
 寝ている三人の顔をそっと順番に撫でてやった。
(そういえば)
 Gは思い出す。
 報告を聞いた後、命令を出すのを忘れていたと。
 まあいいか。
 そんな考えを煙草の煙と共に吐き出す。
 当面の問題は、自分がどこで寝るかなのだから。
 思案するGは、彼にしては珍しく額に眉を寄せながら、結局はベッドの隅に縮こまって潜った。


END


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