短編詞 詞之四 『音痴』


登場人物
月調 阿国(つきしらべ おくに)
月調 阿行(つきしらべ あぎょう)
古村 双鉄(こむら そうてつ)
お夏(おなつ)
緋詰 千里(ひづめ せんり)
石川 銀蔵(いしかわ ぎんぞう)
多喜(たき)


 月光の主城、虎月城。
 多喜は今、膳を下げてきたところだった。
 多喜は飯炊き女だ。といっても江戸後期にあった娼婦としてのそれではなく、純然たる飯炊きを仕事にしている。
 膳の上げ下げは小姓の仕事だが、余計な部分は切り詰めるこの月光という国にあっては多喜が自分で作った飯を配膳するのは珍しくもない。時によっては家老の古村双鉄など時分で膳を下げに来る程であった。
 そして今は、丁度その双鉄の膳を下げてきたのだが。
(最近古村サン食が太くなったような)
 確かにここ最近双鉄の食は太かった。ちゃんと残さず食べるどころか少し多めに食べるほどだ。
 何かあったのだろうか?
 多喜は考える。
 戦が近いという噂がある。それに備えているのかもしれない。
 この時代の食事は朝夕の二食が基本的だが、戦に出て行く武家の人間は力をつけ、常に戦に出れるように昼も入れて三食を食すのが普通だ。
 現代でも自衛官や軍人といった戦うことを生業とする人間は一般人に比べてはるかに多く食事を取る。そうして鍛錬をこなし、常に自分を使える状態に保っておくのが彼らの仕事の一つなのだ。
 双鉄は家老、それも頭脳派の人間だ。だが武家であることに変わりはない。食を太くし、自分の状態を整えておこうとしているのかもしれない。
 多喜はそう結論付けると、少し嬉しくなった。
(こりゃあ腕のふるいがいがあるね!)
 これから城の者も城下の者も、戦に備えていくだろう。戦に参加できない多喜にとっては今が働き時であり、皆のために己ができることであった。
 意気揚々と炊事場へ戻る多喜。その足取りはどこか軽やかだ。
 と、突然呼ばれた。
「あ、おうい、多喜」
 振り返ればそこには小さな体に派手な見かけの童女。阿国だ。
「あ、阿国ちゃん。なんだい?」
「あー、うん、ちょっと付き合ってくれよ」
「?」
 いつもと違って歯切れが悪い。
 不審に思いつつも、多喜は阿国と城下へ出た。


 団子屋『月兎』。
 城を出てすぐ、大通りに面した団子屋で、月光の民の寄り合い所。所謂社交場のようなものであった。
 店先に出された長椅子に多喜と阿国、二人並んで腰掛けている。
「はーい、月兎団子とお茶お待ちどうさんですー」
 看板娘のお夏が盆を持って出てきた。
 月兎団子は普通の団子に白く色づけされた黄な粉をまぶし、鋏を入れて小さな耳を作り、無害な染料を使って赤い目を筆でつけたものだ。赤い漆塗りの盆に白い兎の団子が映える。もちろん串には刺さっていない。楊枝を使い、上品に食べるのが普通だ。
 この時代においては団子も茶も、嗜好品というのは高くつくものだが月兎では町民なら手に出なくもない程度の良心的な値で出されていた。
「ごゆっくりどうぞー」
 お夏は言いつつ多喜の隣に座った。見れば茶は三人分ある。
「おなっちゃん、店はいいのかい?」
 多喜は聞いてみた。
「あさちゃんおるからええんよ。それにこの時分暇なんよ」
 月光の城下には団子屋、それに蕎麦屋があるが、どちらも客の入りが激しいのは昼過ぎから夕刻にかけて。昼を食べない一般の人間が夕飯前の小腹を満たすために食べに来るのが普通だ。今で言う三時のおやつである。
 ゆえに武家が昼飯を食べ終わったばかりというこの時間は割合暇なのであった。
「で、どないしはったん? 阿国はん元気なさそうやけど」
 阿国が落ち込んでいるのは目に見えて明らかだった。
 食べ物に五月蝿く、上手いものを食わねば気が済まんと豪語する人間が、名物の団子を前にして手をつけようともしない。
 それどころか、なにやら思いにふけっている。
 普段元気な人間ほど落ち込むと分かりやすい。阿国はその典型だ。
「うーん、あたしにもまだよくわかってないんだけど」
 多喜は素直に聞いてみることにした。
「阿国ちゃん、なんかあったのかい?」
 対する阿国はため息一つ。
「それがさあ」
 話し始めた。
「なんだか双鉄の奴が最近変なんだよ」
「変?」
「なんていうか、ちょっと元気がないというかさ」
 多喜とお夏は顔を見合わせた。
 古村双鉄という人間は感情を人に見せることを良しとしない。それは双鉄が意識的に行っており、そうすることで常に冷静で的確な判断ができるようにしているものだ。だが、そのおかげで周りからは誤解されているのだが。
 そんな双鉄が弱ったところを見せるなど、聞いたこともなかった。
「でもさあ。さっきあたしが膳を運んだときは元気だったよ? 食欲もあったし」
 多喜は先ほどの様子を言ってみたが、阿国は首を振った。
「それ、おかしいよ。だってあいついっつも質素倹約云々かんぬん言ってさ、切り詰めてるんだぜ? そんな人間が急に飯たらふく食うか?」
 言われてみればそうだ。戦が近いからといって急に何かをしだすような人間ではない。双鉄なら普段から準備は怠っていないだろう。
 ではなんなのか?
「んー、阿国はん。最近なんか変わったこととかないんか?」
「変わったこと?」
 阿国は考える。
「んー? 特にないと思うけど。アタイはいつも通りだし、あいつだって変わったところは特に・・・」
 言いつつ阿国はふと思い出した。
「そういえば・・・、ちょっと前なんだけどさ。夜中に厠に起きたんだ。それであいつの部屋の前を通ったんだ・・・」
 阿国も双鉄も城に住んでいる。どちらも月光の家老だ、それ自体は珍しくない。
「夜中なのにあいつの部屋から灯りが見えてさ。何やってんだと思って声を掛けたんだけど・・・」


「おい双鉄。こんな時分に何してやがんだ?」
 阿国はおもむろに襖を空けて問いかけた。
 双鉄はよほど驚いたのかなんなのか、双鉄にしては珍しくたじろぎながら答える。
「あ、いや、別に何でもない」
 咳払い。
「お、お前こそ何をしにきたのだ?」
「アタイ? ちょっと厠に行くとこさ。お前の部屋から灯りが漏れてたんで何してるか気になっただけだよ」
 すると、不思議なことに双鉄はやや沈んだような面持ちになった。
「・・・そうか」
「? どうかしたか?」
「いや、なんでもない。早く厠へ行ったらどうだ? お前もいつまでも廊下にいては風邪を引くぞ」
「へ、言われなくてもわかってらあ」
 阿国は襖を閉めた。
 閉まり行く襖から覗いた双鉄の顔は、なにやら落胆したような、安堵したような、よくわからない顔だった。


「・・・ってことがあった」
 話し終えて阿国は二人の顔を見る。多喜とお夏は、しかし妙に真剣な顔であった。
「な、なんだよ二人とも」
 真剣な二人は、真剣に聞いてきた。
「ねえ阿国ちゃん、夜は一人で寝てるの?」
「は? 当たり前だろ。アタイだってもう元服してるんだぜ?」
「じゃあ聞くけど、阿国はん、古村様に、その、・・・お情けを頂戴したりはしないん?」
「は? お情け? 何でアタイがあいつに情けをかけられんだよ?」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 思わず二人は顔を見合わせた。
「ねえおなっちゃん。阿国ちゃんが祝言挙げてからどのくらいだっけ?」
「そやなあ、だいたい十日いうとこかなあ」
 暫く無言。そして二人はうなずきあって阿国に聞いた。
「ねえ阿国ちゃん」
「初夜はどうしたのん?」
「へ?」
 間の抜けた顔で阿国。
「初夜ってなに?」
 阿国の言葉に二人の頭の中で同じ言葉が浮かんでいた。
 すわ一大事!
 阿国は知らないのだ。夫婦のそれを。男女のそれを。
 一言で言うならこうである。
 性音痴。
 このままではまずい。
 二人は思った。
 双鉄の異常の原因は阿国だ。
 阿国が性音痴ゆえに夫婦の営みができない。
 それは双鉄だって男だ。幼いとはいえ妻から一度もそんな話すらされないのでは傷つくというもの。
 食が太くなったのは無意識の八つ当たりか、はたまた精力に自信をつけるためか。
 夜遅くまで起きているのは阿国がいつ来てもいいように待っていたのだろう。
 落ち込んで見えたのは当然だ。なにせ妻が夫を求めてこないのだから。男なら傷ついて当然だ。
 このままでは阿国と双鉄の夫婦関係が危ういだろう。
 それどころか、子を成さぬのでは政略結婚の意味などまるでないではないか。
 由々しき事態であった。
 二人は無言でうなずきあう。
「阿国ちゃん、おいで!」
「え? なんだよ急に」
「ええから、はようはよう!」
「ちょ、ちょっと!?」
 二人は阿国を引きずるようにして足早に歩いた。
 向かう先は月調の神社であった。


「は? 性教育ですか?」
 月調神社、そのはなれにある宮司の住まい。
 一同はそこに会していた。
「ええ、もちろんしていませんよ」
 宮司であり、阿国の父親である阿行はこともなしに言った。
「なんでちゃんとしないんですか!」
 多喜は怒っている。いや、半ばあきれてもいた。
「阿行サンがそんなことだから阿国ちゃんが性音痴になんてなるんです! 古村サンのこと考えたら、あたし、あたし・・・っく!」
「わかるわあ、わかるわあたっちゃん! 悲しいなあ、辛いなあ! 今回ばかりは古村様に同情するわあ!」
 お夏など涙を見せている。
「しかしですねえ、かわいいかわいい一人娘に、そんな下世話なこと教えるわけないじゃないですか」
 阿行はけろりとしている。言い分もまさしく。
「じゃあ阿行サン! なんで阿国ちゃんを嫁に出したんですか!?」
「そりゃあもちろん、幸せになって欲しいし、この国のためにもなると思って。ねえ?」
「子供が作れな意味ないやないですか!」
 頭を掻いて阿行は言う。
「いやー、古村殿なら自分から阿国のところに行くかと思ったんだけどねえ。いやいや、意外にうぶだったんだねえ」
 この人は駄目だ。
 誰もがそう思った。
「なあ、さっきから子供がどうとか、何の話してるんだ?」
 阿国もまた駄目な子であった。
「いいわ阿国ちゃん。・・・今日はこれからちゃんと教えてあげるから!」
「うちらに任せとき!」
「お、おう」
 阿国はちょっと後ずさった。
「あんまり変なことは教えないでくださいね?」
「阿行はんは黙っとき!」
 一喝された。
 なにやら隅でうずくまるが、別段誰も気にするものではなかった。
「あのう・・・」
 それまでじっと黙っていた女が、痺れを切らせて聞いてきた。
「わたくしはなぜ呼ばれたのでしょうか?」
 同僚に対しても思わず敬語を使ってしまった。さもありなん。この状況では仕方なかろう。
「ふっふっふ、ついに紹介する時がきたようやね!」
「満を持して紹介します! 特別講師の緋詰千里サンでえす!」
 わー、わー。
 二人だけの少々むなしい歓迎だった。
 まあ、いじけている阿行とあっけに取られている阿国をかんがみれば仕方のないことではあったが。
「あ、は、はい、どうも、千里です」
 思わず答えてしまう。
「ってちょっと待て!? なぜわたくしが講師なのだ!?」
「え?」
 聞かれてお夏は答えた。
「だって、経験豊富そうやもん」
「いやー、だってさあ、あたし恋の経験なんてなくてさあ」
 多喜はさわやかに言い切った。
「ね、ね? 千ちゃん、頼まれてえな」
「ん、むう・・・」
 千里は詰まった。
 なぜなら。
(わたくしだって恋などほとんどしたことがないのだが・・・)
 千里はくのいちであり、その見た目からも経験豊富そうに思われがちである。
 しかし実際は、とんでもなくうぶであった。
「お願い! 千ちゃん! な?」
「あたしからも頼むよ!」
 二人にお願いされてしまった。
「いやしかしだな・・・」
 なおも迷っていると。
「なあ千里、二人がこれだけ頼んでんだからさ、受けてやってくれよ。よくわかんねえけど、頼られてんのを断るなんざ情けねえぜ」
「はあ、ご家老がそう言われるなら・・・」
 真面目人間な千里が断れるはずもなかった。
「で、では、僭越ながら緋詰千里、講師をさせていただきます」
 わー、わー!
 相も変わらず二人だけだが、先ほどよりはむなしさのない歓迎になっていた。
「ん、んん! では、・・・えー」
 何から言えばいいのやら。
 ひとしきり迷った後で、千里は基本から行ってみることにした。
「阿国様、赤子はどこから生まれるかご存知ですか?」
「赤ん坊?」
 阿国はまだなぜそんなことを聞かれるのか分かっていない風情だ。
「確か、女から生まれるんだろ? 母親が死んだのはアタイを生んだからって親父に聞いたしな」
 なるほど、この程度はわかっているのか。
 千里は少し安堵した。
 が。
「でも女がどうやって産むんだろうな? あれか? 口から出てくんのか? 大変そうだなあ。そりゃあ難産だったら死んじまうよなあ」
 絶望した。
 この場にいる阿国以外の全員が絶望した。
 皆の心は一つだった。
 月光ピンチ。
 この時代にピンチなどという外来語はなかったであろうが、正しくそう皆が思った。
 国の重要職である家老、しかも神職である巫女頭がこれでは月光の次代を担う人材を作ることなど到底不可能である。
 心は一つ。
 ならばやらねばならない。
「阿国様! 今日はとことん学業に励んでいただきます!」
「うちらもついとるで! がんばりい!」
「気合だよ! 阿国ちゃん!」
「お、おう。なんか、目の色変わってねえか?」
 気圧されている暇もなく、性教育は開始された。


「まずは基本です! 子供はここから生まれてくるのです!」
「おしべとめしべが!」
「男と女が!」
「”ピー!”が”ピー!”して!」
「”ズキューン!”に”バキューン!”で!」
「そして”バラタタタタタ! ピーポーピーポー! ファンファンファンファン! キューン、ズドーン!”となるのです!」
「う、嘘だ!? アタイは騙されないぞ!?」
「本当です、現実を見てください!」
「こんにちは。皆さん何してますのん?」
「銀! いいところへきた!」
「阿国はん! これがほんもんやで!」
「銀蔵サン! 見せて見せて!」
「な、何ですのん一体!?」
「いいから脱げ!」
「え!? ちょ! 脱ぐて!?」
「むいちゃえ!」
「きゃー!」
「わ、やめ! やめとくれやすううううう!」


 夕刻。
 鴉が鳴いている。
「・・・はあ、はあ、わ、分かりましたか? ひ、人はこのようにして子を成すの、です・・・」
 千里は力尽きた。
 いや、千里だけではない。
 その場にいる全員、後から来た銀蔵さえもが力尽きている。
 そして肝心の阿国は・・・。
「おしべーとー、め、・・・めしーべー?」
 錯乱していた。
 まるで嵐でも吹き荒れたような、そんな状態であった。
「ごめん」
 庭から人が訪ねてきた。
「阿国、お前はやはりここにいたか」
 双鉄だった。
「あ! お、おしべ!?」
「? 何を言っている?」
 阿国はまだ錯乱しているらしい。
「あ、い、いや、なんでもねえ! なんでもねえぞ!」
「そうか」
 双鉄は縁側に腰を下ろした。
「阿国」
「な、なんだよ?」
 おもむろに双鉄は言う。
「今日から、同じ部屋で寝るというのはどうだ?」
 爆発音がした。
 いや、気のせいだ。だが、それが気のせいと言い切れない程度には阿国の顔が赤くなっていた。
「そ、それは! その、なんだ、その・・・」
「何を赤くなっている?」
「いや、別にこれは! あ、暑いな! 今日は!」
「ふむ・・・?」
 まだ季節は冬の終わり。日差しはあるが、空気はやや冷たい。
「まあいいが、その、私とお前も夫婦なのだ。それにお前は市井の人間ではない。同じ部屋で寝た方が体面も良いというものだ」
「そ、そうか! それもそうだな!」
 上ずってしまう阿国。
 この時代では夫婦が床を共にするのは夜伽をする場合だけだ。男尊女卑であり、男は寝室、女は別の部屋で眠る。夜伽をする時だけ、女が男のもとを訪れる。これがお情けを頂戴するということだ。
 それゆえに、同じ部屋に寝るということは床を共にするということ。つまりは双鉄は阿国を夜伽に誘っている。そう見えた。
「で、でもさ! その、なんつうか。嫌とかじゃないんだけど・・・」
 阿国は詰まってしまう。
 下を向いて黙る阿国に、しかし双鉄は手を伸ばした。阿国の頭を撫でる。
「気にしなくて良い。お前が嫌だというのなら共に過ごすだけで良いのだ。夜伽など望んではおらぬ」
「じゃ、じゃあ! なんで、・・・落ち込んでたんだよ?」
 双鉄は口元に笑みを浮かべた。
「っふ、気付いていたか。夜を共にしないのではお前の方に迷惑がかかりはしないかと思ってな。私も少し悩んだのだ」
「っちぇ、なんでえ。だったらもっと早くいやあいいのによう。一緒に寝るくらいなら、その、別にどうってこたあねえんだよ。うん」
 双鉄にしては珍しく、穏やかに笑ったように見えた。
「ではそろそろ帰るとしよう。もう日も沈む」
 立ち上がる。
 そして。
「おい、お前たち! 人の話を盗み聞きしている暇があるなら働くが良い! 月光に暇をもてあますような余分などないのだ!」
 一喝。
「申し訳ございません! これにてごめん!」
「ごめんやす!」
「あ、千ちゃん銀ちゃん! 待ってえな!」
「あ!? 忍びずるい!? 古村サン、ごめんなさい! わあああ!? 夕餉! 夕餉の支度!」
 皆一瞬にしていなくなった。
「な、なんだよあいつら! 聞いてやがったのか畜生!?」
 ふ。と。
 双鉄が笑った。
「はっはっは。では帰るとしよう。早く来ないと置いていってしまうぞ」
「あ、おい、ちょっと待てよ!」
 並んだ二人のでこぼこな影が、夕日で長く写されていた。


「だってさあ、阿国は私のかわいいかわいい愛娘だよ? その娘に性教育だなんて野蛮なこと・・・」
 阿行だけはこの後半日以上、ずっと隅にうずくまっていたという。





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