夕暮れ−フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン−
登場人物
千枝苺(ちえだ いちご)
ジルベール・シュナル
細川要(ほそかわ かなめ)
町田朱雀(まちだ すざく)
井上源三郎(いのうえ げんざぶろう)
「・・・またやっちゃった」
科学教師、千枝苺は頭がいい。
頭脳明晰という言葉はまさに彼女のためにあると言える。
だが、そんな彼女はなぜか実験に成功したことがほとんどない。
「はあ、・・・なんで成功しないのかしら」
夕暮れの実験室、一人実験器具を片付けるその顔には涙が一筋流れていた。
「・・・自信なくすなあ」
普段強気な彼女だが、さすがに失敗続きでは弱気にならざるを得なかった。
フラスコを流しで洗う。蛇口から勢い良く流れる水の音が響く。
ふと、何か聞こえてきたような気がした。
「?」
蛇口をひねって水を止める。
「・・・・・・」
やはり気のせいではない。何か聞こえる。それは・・・。
「楽器の音色・・・?」
窓を開けてみる。
今度ははっきりと聞こえる。
夕暮れの校庭に響き渡る、しかし決して耳障りではない。染み入るような音色。
「・・・いい曲」
思わず聞き入る。
苺はこの曲を知らなかったが、とてもいい曲だと素直に思った。
(でも、・・・なんだか悲しい音ね・・・)
そう思ったとき、別の音色が聞こえてきた。
高めのトーンで、しかし優雅に鳴る旋律は、まるで悲しみの音をなだめるかのように感じられた。
(・・・こんな時間に誰が?)
いつしか苺はその音に聞き入っていた。
音楽室。
優雅な、そしてなだめるかのような旋律はここから響いていた。
旋律を鳴らすのはピアノ。そしてそれを優雅に弾くのはジルベール・シュナルだった。
「・・・フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンすか」
なるべく邪魔にならないよう気を遣ったのか、小声で声が上がった。
「細川先生・・・。やはり気になりましたか? あの悲しいサックスが」
小声を上げた男、細川要はばつが悪そうに切り返す。
「ええ、まあ。情熱的な曲をここまで悲しく演奏されちゃあね・・・」
暫く悲しみのサックスと、それをなだめるピアノの旋律が響いた。
「・・・ッチ、あんまり得意じゃあねえんだがな」
一呼吸。
三つ目の音。低音の歌声が響く。知識と経験に裏づけされた深い声は、要の外見からは想像も出来ない心地よさを感じさせた。
ピアノと歌は響いていく。悲しみを包み慰めるために。
開け放たれた窓を通り、部活の終わりを告げる生徒たちのざわめきとすれ違い、悲しみの音色の元、屋根裏部屋へと響いていく。
町田朱雀は五感を閉ざしていた。
すべてを自分の中から閉め出して、ただただ一心不乱にサックスを吹き続ける。
そこにあるのは悲しみだけだ。世界を呪い、自らを追い込む。そんな感情だ。
(・・・なぜだ! あいつは何で向こうへ行ったんだ!)
ぶつける場所のないやるせなさ。すべての感情は悲しみへと変化し、自らに突きつける以外に他なかった。
(なぜ!!)
朱雀の悲しみが募れば募るほど、サックスの音色はよりいっそう美しいものへと変化していく。
まるで研げば研ぐほど鋭さを増す刃のように。
それが情熱的な曲を、斬新といえるほどにまったく違う領域に高めていた。
朱雀は演奏を続ける。
開け放たれた窓から響いてくる二つの音は、しかし朱雀には届かない。
朱雀は限界だった。溜め込んだ悲しみで胸が張り裂けるかと思うほどだ。
(クソッ!)
ついに限界を超えた悲しみが、その旋律の美しさという枠を超えて崩壊しかけたそのとき。
「――――――」
朱雀の耳に歌が聞こえた。
(!?)
男性の声だが要のような低音ではない。どちらかといえば女性のような声、しかし決して高音というわけでもない。独特な声。
それは四つ目の音として三つの音に介入した。
ジルベールの優雅ななだめとも、要の深い慰めとも、朱雀の鋭い悲しみとも違う。
思わず聞かされてしまうような韻を踏んだ独特な歌声。それは朱雀の悲しみを、ただただ受け止めるだけだった。
まるで泣けといわんばかりだ。
(・・・・・・)
いつしか朱雀は落ち着いていた。しかし、悲しみは終わっていない。むしろ四つ目の音によって感情が整理され、涙となって溢れてきた。
朱雀は泣き続ける。そしてサックスは涙の量に比例して澄んだ音色へと変化していく。
やがて四つの音は混ざり合い、一つになった。
一つ目の音。朱雀のサックスは澄んだ主旋律を奏でていく。ビブラートを効かせて、情熱的に響く。
二つ目の音。ジルベールのピアノは伴奏をつける。しかし、ただの伴奏ではなく、ジャズ特有の茶目っ気のあるアドリブが心地よい。
三つ目の音。要の低音の歌声は、後から来た音にメインボーカルを譲り、深く味わいのあるコーラスを歌いあげた。
四つ目の音。その独特の歌声は、メインボーカルを主張し、それでいて他の音と良く馴染み、聞くものを魅了した。
それは完璧なセッションだった。
誰が聞いても称賛したかもしれない。惜しむらくは聞くものが苺一人だということだった。音を聞きつけた者はいたかもしれないが、四つの音をベストなポジションで聞けるのは苺のいる実験室しかなかった。
「―――I
love you.」
やがて、メインボーカルが最後の歌詞を囁く。
サックスが、一際長く音を放った。
セッションが終わったのだ。
「・・・あ、終わっちゃった」
苺は我に返った。
開け放した窓のサンに寄りかかって、思わず聞き入っていた。
「いい曲だったな」
苺は思う。素晴らしい演奏だったと。確実に今日は得をした。
しかし、その一方でこうも思う。
(二度は聞きたくないかな・・・)
なぜなら、・・・。
(・・・すごく悲しい演奏だったから・・・)
朱雀は涙で濡れた顔を上げた。
屋根裏は電気をつけておらず、すでに日は落ちているために真っ暗だ。
(・・・・・・)
朱雀は半ば放心状態だった。すべてを涙と共に流しきっていた。
と、暗闇に拍手が響いた。
たった一人のささやかな拍手。しかし、音のない空間ではとてもはっきりと聞こえる。
「・・・、源三郎先生。いたんですか」
相手を認識し、口に出た言葉は自分でもそう思うほどに間抜けだった。
今の今まで共にセッションしていた相手に向かって、いたんですかとは間抜けにもほどがある。
おもわず後悔して、なんともいえぬ表情をする朱雀。
「ふふふ。町田先生、久しぶりに良いセッションでしたよ」
「いや、今まで何度か一緒にやったことがあるのに分からなかったなんて、お恥ずかしい」
暗闇の中、四つ目の音の主、源三郎は迷うこともなく明かりのスイッチをつけた。
朱雀の網膜を蛍光灯が突き刺す。
思わず目に手をやって、自分が泣いていることを思い出した。
あわてて袖で顔をぬぐいながら朱雀は言った。
「と、ところで、源三郎先生はここで何を?」
聞かれた源三郎は何事もなかったかのように部屋を物色し始めた。
「この屋根裏部屋はね、佐倉先生とシェアさせてもらっているのですよ。確かここに描いた絵が・・・。ああ、あった」
源三郎は一枚の絵、カンバスに描かれた油絵を取り出した。
「ああ、絵を取りに来られたんですか」
「ええ、見ますか? いや、ぜひとも見ていただきたいね」
源三郎の言葉に何か異質なものを感じながら、朱雀は絵を受け取った。
「・・・!? これは!?」
朱雀は二の句が継げなかった。なぜならその絵は彼を驚嘆させるほどのものだったからだ。
「・・・どうです? 我ながら良く描けていると思いますが」
源三郎は懐からライスペーパーを取り出すと、同じく取り出した煙草の粉末を手馴れた手つきで巻いていく。僅かな時間で立派な紙巻煙草が出来上がった。
校内は基本的に禁煙だ。だが、今の朱雀にはそれを注意する余裕などなかった。
「・・・これは、一体どういうことなんです!?」
煙草にマッチで火をつけて一服。
紫煙を吐き出し、たっぷり余裕を持ってから源三郎は口を開いた。
「ある場所で彼に出会いましてね。なかなかの演奏だったのでよいモチーフになると思いまして。思いのほか良い絵になりましたよ」
「そんな!? あいつに会ったんですか!? 一体どこで!?」
聞きながらも、朱雀は絵から目が離せない。
描かれているのは一人の青年。暗いどこかの店内と思しき場所でドラムを叩いている。情熱的で生き生きとした絵だった。
「町田先生・・・」
たっぷり一呼吸。もちろんその間に一服。
「彼は元気ですよ。彼が向こうに行ったのは彼の意思です。たとえ状況があったにせよ、最終的に決めたのは彼なんですよ。あなたが気に病むことじゃない」
「しかし!」
「彼は元気だ。そして彼は自分で自分の道を進んでいる。たとえそれがどんな道だとしても、自分のレールを歩いているのなら、それはいいことですよ」
「・・・・・・」
朱雀は何も言えなかった。
確かに彼が向こうに行ってしまったのは自分のせいではない。そしてそれが彼自身の意思であるなら、なおさら自分にいえることはなかった。
「・・・・・・」
暫く無言が支配した。
ただ何も言わずに絵を見つめる朱雀と、煙草をふかす源三郎がいるだけだ。
不意に、朱雀は自分が再び涙を流していることに気付いた。
「あ・・・?」
思わず出てきた驚きの一声は、やがて小さな嗚咽へと変わっていく。
「は、はは・・・、変ですね。何・・・、泣いてるんだろう・・・」
一服し、一際深く紫煙を吐いた後で、源三郎は言い聞かせるように言葉をつむいだ。
「泣いていいのですよ。町田先生。あなたがしてやれることは彼のために泣いてあげることくらいだ。ならばせめて、気が済むまで泣くといい・・・」
一拍の後、屋根裏に朱雀の泣き声が響いた。それは号泣でこそなかったが、絵を抱きしめて泣くその姿はそれに匹敵する彼の感情を表現していた。
時計の針がかなり進んだ頃、ようやく朱雀は泣き止んだ。
我に返った彼は、こみ上げてきた恥ずかしさに抵抗するべく、笑顔を取り繕って顔を上げた。
「ははは、すみませんね。変なところを見せてしまって」
顔を上げた朱雀だったが、はたしてそこには源三郎の姿はなかった。
「・・・帰っちゃったかな?」
一抹の寂しさがよぎる。
しかたない。自分はみっともない姿をさらしたのだ。
そう思ったとき、机の上にメモが置いてあることに気付いた。
「・・・?」
手書きの鉛筆による文字が書かれている。
『町田先生へ いつものバーで待っています。バーテンに変な気を遣われない程度に落ち着いたら来て下さい。おせっかいな二人も誘っておきます。その絵は差し上げます。持ち帰ってくださって結構ですよ。 源三郎』
「・・・源三郎先生」
思わず苦笑がこみ上げる。
普段関心のない態度をとっておきながら、一番おせっかいなのはあなたではないか。
そんなことを思いつつ、朱雀は屋根裏部屋を後にした。
END
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