第二話『世界にひとりは』



 夢の中、私はいつも追い詰められている。
 夢の中の私はいつも学生で、学校という場所にも、友人にもなじめない。
 ただ、学校という場所に行きたくなくて、それだけで嘔吐していた。
 目を覚まし、三十も過ぎた自分の手を見て安心する。
 ああ、私はもう、学校にいなくていいのだ――。


 ●


「歌音ちゃん、授業に出ようよ?」
 こいつ、あたしの話聞いてねえな。
「やだっつってるでしょ」
 あたしは美紀に向かって手をひらひらと振る。
 学校の校舎裏。そこにできたちょっとした広場。広場っつっても三人並べば幅はいっぱいの細長い、校舎とフェンスの隙間だ。
 あたしはそこで煙草をふかしながら、美紀の言葉に気だるく答えてた。
「歌音ちゃん」
 こいつ、何がしたいんだろ――。
 あたしは短くなった煙草を地面に押し付ける。煙草は先輩の男子から買った。どこかで手に入れてくるらしい。
 授業が始まるチャイムが鳴る。
「授業始まったよ。行けば?」
 あたしが美紀に言う。それでも、美紀はあたしに食い下がった。
「歌音ちゃんも、行こうよ」
 こいつはなんであたしを授業に連れて行きたがるんだろう?
 あたしはあたしの意思で授業に出ない。理由は単純に〈合わない〉からだ。勉強が嫌いかと言われればそれほどでもない。授業が難しいかと言われればそうでもない。
 センセはちょっとムカつく奴だな。
 一番の理由はやっぱり学校って場所になじめない。授業の時間に授業を受けて、休み時間に周りの同じ歳のやつらと会話して、そういうのが苦手だ。
 息苦しいって言うかなんて言うか。自分でもちょっと言葉にしづらい。
 まあ、そんな感じで自分で授業は受けたくないし、そんなことをするならここで煙草でも吸っていればいいと、あたしは思ってるわけだ。
 なのにこの子は、自分も授業に出ないであたしを連れて行こうとする。なんなんだか。
「歌音ちゃん、行こうよ」
 美紀が言った時、フェンスの向こうの民家から、婆さんが出てきた。買い物にでも行くみたいかな? 婆さんがあたしに軽く頭を下げたんで、あたしも軽く頭を下げる。いつも同じところで煙草を吸ってるから、おなじみの顔だ。
「歌音ちゃん!」
 声に美紀の方を向く。
 あー、真剣な顔してんな――。
 あたしには、よくわかんねえや。


 ●


「て、まあそういうことがあったんだよねー」
 あたしは煙草を取り出して火をつけた。んだけど、その煙草は素早く取り上げられておっさんが口にした。
「あ、ちょっと! なにひとの煙草吸ってんのさ!」
 夕方のファミリーレストラン。そこの喫煙席。その席にあたしとおっさんはいた。
「前にも言っただろう? 未成年が吸わないこと。せめて人目を気にしなさいってね」
 黒尽くめのおっさんが、笑いながら煙草をふかした。
「ち、大人面しやがって」
「大人だもの」
 おっさんはニヤニヤと笑った。
 このおっさん、前にちょっと知り合ったわけあり人間だ。自分の親父を殺しちまって自首したんだけど、精神障害を持っていて、殺された親父ってのがまたろ くでなしだったみたいで。いろいろあって半年は揉めたんだけど、結局実家に帰ってきたらしい。今は男の癖に家事をしているんだとか。
「大人はいいよなー」
 あたしはぼやく。
「大人だっていろいろあるさ」
 あんたが言うと冗談にならねえな。
 この町に戻ってきたこのおっさんと、あたしはなんだかよく会うことにしている。何でかって言われたら上手く説明しづらい。まあ、話を聞いてくれる大人、か。素直に言えば、そういうことか。
 そこまでを考えたら、自然と口をついてぼやきが出た。
「あたしも結構、ろくでもない人生なんだなー」
 おっさんが細い目であたしを見る。このおっさんはいっつもあたしを見ると優しく笑うんだ。
「みんなそれぞれ、大なり小なりろくでもない人生歩んでるもんさ」
「そんなもんかなあ」
 おっさんの言葉はいつも軽い。軽いけれど、学校や家で聞くどの言葉よりも素直に聞ける。
「他人の目に見えてこないだけで、ひとそれぞれ何かしらの重いものは持ってるよ。問題はそれをどう受け入れるかさ」
 そんなもんかなー。
 あたしは再び思う。そんなもんだとして、美紀なんかはよく他人にかまってられるな……。
 なんだか力を抜きたくて、テーブルに突っ伏してみる。横向きの顔の先に、隣のテーブルが目に入った。一組のカップルがこっちをちらちら盗み見てやがる。
「け、しっし!」
 起き上がったあたしは隣のテーブルに向けて手を振ってやる。
「こら、行儀が悪いよ」
「盗み見てるほうは行儀悪くないのかよ!?」
 あたしは講義する。相手の行儀が悪いんだ、そんな相手に付き合ってやる必要なんかあるのか?
「ひとそれぞれって言っただろう? つまり、ひとはひと。自分は自分。自分まで行儀悪くしたら、相手と同じつまらない奴になってしまうよ」
 そりゃそうだけどさ。ちょっと納得できない。
「相手のせいで自分まで地に落ちる必要はないってことさ」
 そう言われるとちょっと分かる。でもこのおっさんの言葉もなかなか相手に厳しいな。
「ふーん。じゃあさ――」
 あたしは疑問を投げてみた。
「美紀はなんでそんなあたしを連れ出そうとすんのかな?」
 相手と同じところに落ちる必要はない。なら、なんで美紀は授業に遅れてもあたしを連れて行こうとするんだろう。
 おっさんは吸い終わった煙草を灰皿に押し付けた。軽くぽんぽんと煙草を押すしぐさは、なんだか余裕がある。
「その子が君のことを気にしてるからじゃないかな?」
 おっさんが答える。
 あたしを気にしてる、か。
「何で?」
 あたしの率直な意見だ。
「相手と同じところに落ちる必要がないなら、美紀はあたしを気にしなければいいじゃん」
 素直に思う。そのはずだよなー。
 おっさんは右手のひらを上に向けた。
「それはわからんなあ」
「わかんねえのかよ」
 おっさんが肩をすくめる。
「ひとそれぞれだから、本当のところはその子に聞いてみなきゃわからんさ。話してみたらどうだい? その美紀という子と」
 少なくとも嫌われてはいないんだろう、とおっさんは言った。
「話してみる、ねえ」
 あたしはソファーに倒れこむ。背もたれはあんがい柔らかく包んでくれた。
「ちなみにおっさんはさ――」
 聞いてみる。
「授業に出ないの、良くないと思う?」
 おっさんの答え。
「授業は無駄じゃない。だけど、君が価値を見つけられないなら出れないのは仕方ないな」
 おっさんのこういうところ、嫌いじゃない。


 ●


 次の日。あたしは今日も授業をサボって校舎裏だ。
「歌音ちゃん!」
 お、きたきた。
「また授業サボって……」
 そう言う美紀に、あたしは手招きした。
「ちょっと座んない?」
「え?」
 美紀は動揺したみたいだ。まあ、そりゃそうか。普通こういう不良のほうが、隣に座ろうなんて言わないよなあ。
「授業に行く前に、ちょっと話そうよ」
 あたしがそう言うと、美紀は恐る恐るあたしの隣に座った。
 あたしは煙草を吸う。
 と、美紀が咳き込んだ。
「あ、ごめん」
 思わずあたしは謝る。
「ううん、私、煙が苦手なの」
 あたしは煙草を地面に押し付ける。煙草は確かに吸うけど、誰かの迷惑になる為に吸ってるわけじゃない。
「いやー、マジごめん」
 言いながら吸殻を片付ける。
「あ、ちゃんと吸殻は回収するんだ」
 美紀が驚く。
「知り合いのおっさんがさー、ゴミはポイ捨てするなって五月蝿いんだよー」
 あたしの言葉に、美紀は笑った。
「そのおじさん、いい人ね」
「そうかあ?」
 美紀が笑ったところは初めて見た気がする。そーいえばいつも授業に出る出ないの押し問答しかしてないな。
「で、お話って?」
 あ、そうだ。肝心なこと忘れてたよ。
「いや、美紀はなんであたしを授業に連れて行きたがるのかなーって」
 あたしはなんとなく上を向いた。空が青い。だってまあ、相手の顔まじまじと見ながら話せる内容じゃねえぞこれ。
「私が歌音ちゃんを授業に連れて行く理由?」
「そう」
 あたしの疑問に、美紀はちょっと考え込んだ。
「歌音ちゃんに、ちゃんとして欲しいから、じゃだめ?」
 あたしを窺うように、美紀が聞いてきた。
「なんであたしにちゃんとして欲しいのさ?」
 聞き返す。
「えっと――」
 美紀は考えながら答えた。
「私ね、歌音ちゃんが好きよ。なんていうか、気になるの。友達になってみたいなあ、って思う」
 こいつ、今さらりと恥ずかしいことを言ったな?
「でね、友達になりたいけど、歌音ちゃんが教室にいないと話せないでしょ? だから、授業に出て欲しいなって」
 なるほど。言いたいことはよく分かった。なんで、あたしは言葉を返した。
「今話してるじゃん」
 そう、今話してる。別にそれは教室じゃなくたっていいじゃん。
「あ、そっか」
 それだけ言うと、美紀は縮こまった。そうかー。あたしと話してみたかったのか。
「あたしと話すの、教室とかじゃなきゃダメ?」
 美紀を伺う。
「え? えーっと――」
 美紀はやっぱり、ちょっと考え込んだ。
「私は、授業を受けたいなって……」
 なるほど。
「あたしは受けたくないんだよねー」
 素直に言う。
「歌音ちゃんは、なんで授業が嫌なの?」
 意外なことを聞かれた。あー、でも美紀からしたら意外じゃないのか? だって美紀は授業を受けたいって思ってるわけだから。美紀にとってはそれが普通なんだろうな。
「あたしはさ、授業を受けることが普通だとは、何だか思えないって言うか――」
 あいにくこの問題は言葉にしづらい。
「なんだか嫌なんだよ……」
 あたしは頭をぼりぼりかいた。言葉にしづらいことって面倒だなあ。
「そっか」
 でも、意外にも美紀はそれだけ口にした。話してみれば、あたしに無理にでも授業を受けさせることが目的じゃないってことなんだな。
「ねえ」
 あたしは言ってみた。
「話したいならさ、放課後じゃダメ? LINE交換するし」
 LINEの交換。あれ? ひょっとしておっさん以外のひとと交換するの初めてだから、同級生第一号? むしろ普通逆だろう……。
「あ、うん。じゃあ、それで」
 美紀はすんなり受け入れた。話してみれば、簡単なことだったなあ。
 LINEを交換した美紀は、そっと立ち上がる。
「じゃあ、授業あるから私行くね」
 ちょっと笑ってる。
「ん。あたしはもうちょっとここにいる」
 いつもの婆さんが家から出てきて、軽く挨拶してきた。やっぱりあたしも挨拶を返す。
「じゃあ、放課後! 連絡するから!」
 美紀は走って校舎の中へ入って行く。
 しかし、あたしのことが好き、かー――。
 煙草を取り出して、口にする。
「この世界に、いないわけじゃないんだなあ」
 むずがゆい気持ちで、青空に煙を吐き出してやりたくなった。


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