10月1日

登場人物
マキナ:機械の名を持つGC(ゴッドチャイルド)
マリモ:永久機関の研究員
霜月:十三人の神々の一人。フリメール
バイセン:軍人

 

 日記:十月一日 晴れ
 今日はエラ呼吸が出来ます。


 ●


 その空間は無言が支配していた。
 その場にいる誰も、皆言葉を口に出すことはない。
 口を閉じてただ、目の前の少女を見ている。
 少女。
 様々な計測機械と思しきものが配置された、やや広い部屋の中央に、少女はいた。
 部屋の中央、人が三人ほど立てる程度の小型の魔方陣。そこに被せた防護壁代わりの強化硝子。その中に少女はいた。
「……!」
 無言だ。しかしそれは完全な無言ではない。
 無言という呻き声だ。
 この部屋の中で唯一、ただその呻き声だけが紡がれ続けている。
 それを発するのは少女だ。
 暗い青の髪を振り乱し、歯を食いしばり、感情の宿らぬ赤い瞳に力を込めて、少女は呻く。
 食いしばる歯は互いに食い込み、力を込めて異様なまでに盛り上がった背中の筋肉は、白くぴったりと身体を包むタンクトップを盛り上げて痛々しい。
 極限。
 それが今の少女に相応しい言葉だ。
 極限まで身体を酷使している。
 全身の力、その全てを持って、床に備え付けられた鎖を引き続ける。
 鎖は直に床に括り付けられている。どんなに力を込めようとも持ち上がるものではない。
 しかし少女は鎖を引き続けた。
 あらん限りの力で。
 それが少女の仕事なのだから。


 だめだわ――。
 呻きの部屋で、少女を見つめる目の中の一つ、深い緑の目に思考が過ぎる。
 黒いストレートのロングヘア、高くはないが伸びた背筋を白衣が包む。良く言えば凛とした、悪く言えば固いイメージの若い女。
 それが緑の目の持ち主。この実験の担当主任、マリモ=リンネイだった。 
 マリモは思う。この程度では駄目だと。
 この程度ではこんな実験も終わらないわ――。
 実験。それが今、この部屋で行われている事の全てだ。
 新型身体強化用術式の開発と、それによる強化人体の耐久度実験。
 今行われているのはその耐久度実験だった。
 不意に、マリモは軽く爪を噛んだ。
 いらついている。
 さっさと終わらせたい。彼女はそう思っていた。
 もともとこの実験はマリモの担当分野ではなかった。だが、手すきだったのをいいことに、同僚が実験部分だけを押し付けてきたのだ。
 断らなかったのはマリモ自身だ。しかし、断らなかった理由は彼女自身の問題でもある。
 自分が他人よりも不出来であるという思い込みのコンプレックス。
 それゆえ強く断れなかった。しかしその一方で、
 あいつに完璧なデータを突きつけて、もう二度とあんな顔で私を見れないようにしてやる――。
 心に渦巻くのは実験を押し付けてきた同僚への敵対心だ。
 それらは全て苛立ちとなり、彼女の思考を被検体の少女へと集約させる。
 一言を言えばいい。少女はGCなのだから――。
 マリモは口を開いた。


「マキナ、もっと力を入れなさい」
 マキナ、そう呼ばれた被検体の少女は、しかし迷うそぶりも見せずに答えた。
「了解しました――」
 口調は涼しげだ。しかし、その顔はやはり極限の苦しさに満ちている。
 だが、マキナは答えるだけではなく、行動で示した。
 全身が膨れ上がり、背中の筋肉がさらに膨張し、盛り上がる。
 最早鎖までもが悲鳴を上げ始める。
 それでもなお――、
「もっとよ」
 マリモは指示した。
 すでにマキナに言葉はない。ただ、力をさらに込めることで肯定とする。
 マキナの全身に貼られた身体強化術式の符が、赤く発光し始めた。
 開発している強化術式すらすでに限界を示している。
 周囲の研究員が息を飲む。これ以上は限界だと。
 しかし、声は三度、部屋に響いた。
「もっと」
 マリモの顔に感情はない。いや、正確にはある。同僚に対する負の感情が。だがしかし、マキナに対する某かの感情は、そこには一切なかった。
 マリモは思う。GCは道具。神が与えたもうた実験のための機材だ。
 殺すことは禁じられているがしかし、壊すなとは言われていない。
 マキナに指示を出すその言葉に、感情のブレは見当たらない。
 見かねた研究員の一人が口を出そうとしたとき、マキナ自身が口を出した。
「すでに私の身体も術式も、これ以上は限界だと思われます。今以上に力を入れれば身体が壊れると理解します」
 力を入れながらも口調は丁寧で、多少こもっているが流暢だ。
 そしてマキナは告げた。マリもが嫌う言葉を。
「それでもこれ以上力を入れろと申されますか? ”マリモ”様――」
 その瞬間マリモの口端が、嘲笑とも怒りとも取れない、そんな釣り上がりを見せた。
「当たり前よ。そこまでやってこその実験だわ。壊れても死にはしないわ」
 告げられる言葉。それは死刑宣告に等しい。だが――。
「了解しました――」
 マキナは一言を答えとし、力を込めた。
 符が、筋肉が、限界を超える――。


 骨が外れ、筋肉がちぎれる、耳に残る音が響いた。


 ●


 気持ちがいい――。
 マキナは思う。
 冷たい世界とは、どうしてこんなに気持ちがいいのだろう、と。


 ●


 フリメール。それが彼の名前だ。
 正確には名前の一つだ。もうひとつの名前は霜月。この世界に降りたった十三人の神々の一人として、その名で恭しく呼ぶ人間もいる。
 薄紫の、大きく長いみつあみを揺らし、女性のように整った顔に薄ら笑いを浮かべながら、彼は飛ぶ。
 そこは薄暗く、人の気配はない。
 ただ、人以外の静かな気配であふれていた。
 永久機関、その研究班で管理している実験動物管理用水槽。
 その巨大な水槽が幾つか並べられた場所だ。
 フリメールは自分の縄張りを持つのが好きだ。
 他人を寄せ付けず、自分だけが出入りできる空間。この水槽群もその一つだ。
 ここに置かれた水槽の生物たちは、ほぼ全て実験の失敗作だ。今更だれが取りに来るわけでもない。
 緩やかに死を待つ、失敗作どもの墓場。それがここだった。
 特別気に入っている場所でもないが、ただ緩やかに死を待つしかない彼らを眺めて行くのはそこそこに楽しかった。
 誰かが入ってくることもないというのは実にいい。
 身体の端々を霧状に変化させ、宙を滑るように行く。死に行くものどもを見つめながら。
 と、フリメールと水槽の中の生物の目が合った。
 その赤い目の生物は、赤いビキニを見せ付けるようにフリメールに手を振っていた。


 ●


 水槽の硝子を叩く、くぐもった音。次いで天井を示す指のサイン。
 その意図は容易にわかる。
 意訳するならば、【顔を出せ】だ。
 マキナは素直にそれに従う。水を掻き、垂直に身体を躍らせる。そして水面に顔を出し、声を発した。
「何でしょうか、霜月様」


 ●


「マキナ、あんた馬鹿だろ?」
 何でしょうかと問われたので素直に返した。心の底から思う言葉で。
「ははは、いきなり言うにことかいて馬鹿とは、なかなかいえない褒め言葉ですね?」
「褒めてないよ海洋生物。いつからあんたは下等生物に成り下がったのかな?」
「私は今まで自分を下等な立場だと思っていたのですが、今自分がそうではなかったことに驚きを覚えております」
「口の減らない水生生物だなあんたは。霧になって蒸発してみるかい?」
 やおらマキナは背泳ぎでその場を離れた。
「おやおや、相変わらず霜月様は沸点低めの山頂人種ですね。神の意向とあれば霧になって蒸発するのもおつかもしれません」
 マキナの蹴り出した水しぶきが上がる。
「おい、水がボクに掛かったらどうするんだい? この水槽ごと下等生物から下等霊にしてもらいたいのかな」
「それもいいでしょうね」
 マキナは意に介さない。
 霜月は思う。この女は言葉でなじっても意味がないと。
 話題を変えることにした。
「それで、今日はどうして下等生物ごっこしてるのか、答えてもらおうか?」
「はい、単純に申しますと、マリモ様に実験の報酬をあつかましくもねだった所、あなたにはエラ呼吸がお似合いよ、せいぜい水の中であがくがいいわと申されましたので、その場に居合わせた研究員様にエラを一日限定でつけていただきました」 
 フリメールはいらつくその感情を顔には出さず、話を促した。
「つまり?」
「大絶賛冷たい世界を満喫中でございます」
 思わず本当に水槽ごと消滅させてやろうかと思ったが、思いとどまった。
 フリメールは知っている。この生意気でむかつく、口から先に生まれたような女が死というものを怖がらないことを。
 相手に感情を与えないのではつまらない。
 それゆえに。
「丁度いい。ボクの縄張りに入り込んだ罰として、仕事をしてもらおう」
 別の嫌がらせを思いついた。


 ●


「ありがとうございましたー!」
 可愛らしい女性店員の、鈴の音のような声に送られて、マキナは外へ出た。
 普段着のだぶついたトレーナーとロングスカートが、秋の風に軽くなびく。
「奇妙な罰ですね」
 マキナは呟く。
 ムーンバックスカフェのクロワッサンを二つ買ってくること。それがフリメールがマキナに架した罰だ。
「もっとこう、沸点低い霜月様らしい肉体的な、どこぞのサブカルチャー系歌手がスパンキーング! とか歌いだすような罰が来ると思っていたのですが……」
 いぶかしみながら歩く。
「まさか菓子パン二つのパシリとは――」
 よくわからない。だが、わからなくとも自分は従うだけだ。それが低い立場である自分のすべきことだ。
 そう思い、マキナは帰り道を急ぐ。
「こちらが近道でしたね」
 自分は使われる側であり、常に使う側のことを考えなければならない。そう考えて、近道である路地裏の狭い道へ入っていく。そして曲がり角を曲がった。
 瞬間、マキナはそれにぶつかった。

「いってぇな……」
 それは喋った。当然だ。それは人だったのだから。
「すみません、まさか曲がり角にこちらを避けることも出来ない鈍い殿方がいるとは思いませんでしたので」
 咄嗟に謝った。いつもの調子で。
「咄嗟に謝ってそれかよ!? んだこの口の悪ぃガキは……」
 もっともな言い分だ。
 しかしそれに臆することなくマキナは相手を観察した。
 普通なら観察する必要などない。だが、彼女はそれを行った。
 なぜならば、ぶつかった相手は軍人だったからだ。
 黒髪の長身。にやついたように細めた目は白目が黒く、瞳孔が鈍く光る金色。そして一目で軍人とわかる軍のコートを、前を外して着崩している。
 男はその特徴的な目を不満げに歪めると、何かに気付いたようにあたりを探す。
 やおら、それを見つけて拾い上げた。
「あー、くそ、やっぱり落としちまってたじゃねえか」
 男の悪態に、しかしマキナは身を固める。
 男が拾ったもの。それはリミッターだった。
 リミッター。それはGCの行動を止めるべく開発された緊急停止装置のようなものだ。
 GCは生み出された生命だ。しかし、その異能の強さは管理する側である通常の人類を凌駕する。ゆえにGCをいつでも行動不能の状態に出来る停止装置、リミッターが開発された。
 そんなに特殊なものではない。今では特定の組織の人間なら簡単に手に入るものだ。
 しかし、GCからすればそれは脅威でしかない。
 マキナは考える。
 この場をやり過ごすべきだ、と。
 今はどこの組織もGCの確保に躍起だ。
 自分の正体がばれればこの男は軍人として、自分というGCを確保しに来るに違いない。
 慎重に次の行動を考える。
 だが、目の前の男は、”いやらしい事に関しては”目ざとかった。
「お前、今、ちょっとびくってなったよなあ?」
 男は口を釣り上げて笑う。
 口の端から覗く男の歯は、鮫のような生物のそれだった。
 マキナは直感する。男が鮫の獣人であり、刺激してはならないことを。
 獰猛な獣の獣人は、得てして獰猛な性格が多い。
 ゆえに、言葉を作る。ごまかしの言葉だ。
「そのようなことはありません。見間違いでしょう」
 しかし、男の獰猛な本能は、すでに刺激されていた。
「見え透いた嘘を吐くなよっ!?」
 一閃。
 男の手が、一挙動で振りぬかれる。
 それは自分の獲物を抜き放ち、同時に切りつける手練の技だ。
 男の獲物、抜き身になったカットラスが空を裂いた。
 だが、カットラスはマキナを捉えてはいない。マキナとカットラス、その間を阻むものがあった。
 赤い半透明の刀身。
 マキナの異能が作り上げた、一振りの刀だ。
 異能の刀がカットラスを受け止めている。
 それを見た男はしかし、さらに笑いを釣り上げた。
「いいぜえ、いい力だ。やっぱお前も姫さんじゃねえか――」
「姫?」
 マキナは聞き返す。戦いの相手にしては妙な呼び名だ。
「GCってことだよ!」
 男が力任せにカットラスを振り切る。
 マキナには男ほどの力は無い。異能こそ強力だが、GCといえども身体能力は通常の人間と変わらない。
 押し切られる前に力を受け流し、カットラスを弾いて距離を取る。
 しかし――、
「っへ――」
 力の抜けるような侮辱の笑み。同時に男の左手に握られるのはリミッターだ。
「――!」
 リミッターは折るだけで起動する。簡単に折れる代物だ。
 マキナは距離をとっているためにそれを妨害することは叶わない。
「惨めに倒れろよ、姫さんよう!」
 男の左手の中で、リミッターが折れた。

「……なんだと――?」
 リミッターは折れた。しかし、マキナは倒れていなかった。
 代わりというように、マキナの手の中で、異能の刀が砕け散った。
 マキナの手は、刀を振りぬくそのポーズだ。
「またつまらぬ概念を斬ってしまった」
 芝居口調で、事実だけをマキナは告げた。
「ああん?」
 男は要領を得ていない。
「私の異能です」
 マキナは告げる。諭すように。
「物質、あるいは物事の概念そのものを切断します。今はそのリミッターの持つ”GCを止める能力”という概念を切断しました。簡単に言えば無効にしたのです」
 付け加えて言う。
「私の刀はどのような概念でも切断いたします。唯一切断できないものは、こんにゃくではなくて”生命という概念”だけですが」
 つまり言いたいことは一つだ。
「あなたに勝ち目はありません」
 言われた男はしかし、笑っていた。
 それは純粋な笑いだ。
 楽しい。
 それゆえの笑い。
 獰猛な獣が楽しさを覚える理由は一つしかない。
 良い獲物が見つかったのだ。
「いいぜえ姫さんよ。アンタ最高だよ……」
 口端を釣り上げる。いや、それはすでに笑みという表情で口を開けているような状態だ。
 鮫特有の、幾重にも重なった鋭い歯が、マキナに向けられた。
 マキナの背筋を、冷たい感覚が走る。
 直感で感じた。
 この男はヤバイ――。
「姫さんよ、アンタ、――噛みたくなったぜ」
 男はカットラスを持つ手を、横に垂らした。
 ただ垂らしているように見える。だがそれは、完全に相手を切り裂くための構えだとわかる。
「姫さん、名前は?」
 唐突に聞いてきた。
 なぜ突然に名前を聞くのかはわからない。だがマキナは、返すべき言葉は返すべきだと判断する。
「レディに先に尋ねるつもりですか?」
「おっと、こいつは失礼」
 わざとらしく笑って言う。
「俺はバイセン。バイセン・クリフォードだ」
 言って、顔でこちらを促した。
「マキナ。ファミリーネームはありません」
 バイセンは笑みを濃くする。
「マキナか――。食っちまいてえな、アンタ――」
 言うが早いか、バイセンはマキナに”噛み付いてきた”。


 ●


 突如行われたバイセンの噛みつきは、体当たりとも言うべき恐ろしいまでのスピードと、”捨て身ぶり”だった。
 マキナは冷静にバイセンの噛みつきを避ける。
 片方の足を軸に身体を回す。体位を入れ替えれば、バイセンの目の前は誰もいない空間になる。
 そして、マキナが元いた場所の先は、すぐに壁だった。
 狭い路地だ、そんな勢いで突っ込めば壁に当たって当然だ。
 路地の壁は厚い。全力でぶつかってはひとたまりもないだろう。
 壁に激突して即KOだと判断できますね――。
 しかし、マキナの判断したとおりには、現実はならない。
 衝突の瞬間、バイセンは”こちらを見て笑った”のだ。
 壁にぶつかる。
 しかし、鳴り響く音は壁にぶつかるそれではない。
 水に何かが沈む音。
 大きく、重く、しかしうねりを持った、水音だ。
 バイセンの身体が、壁に沈んだ。
「――これは!?」
 あっけに取られた瞬間、マキナの頭上が翳った。
 危険を感じる。そう思ったときには後方へバックステップ。距離をとった矢先に落ちてきたのはカットラスの閃き。
 上空からのバイセンの攻撃だった。
 バイセンは攻撃が避けられるとそのままの勢いで”地面に潜った”。
「――これがバイセン様の異能、ですか」
 マキナの言葉に答えるように、バイセンは地面から頭だけを出して見せた。
「そう、俺の異能だ」
 その顔に湛えられた笑みは変わらない。
「俺は鮫の獣人だからな。まあ、水を得た魚ってやつだ」
 くつくつと笑う。
「じっくり料理してやるよ。そして一番美味しい所で、噛み砕いてやる――」
 言うと再び、バイセンは地面に消えた。
 鮫の背びれよろしく、カットラスを見せびらかして。

 マキナは状況を分析する。
 この状況は自分にとって不利だ。それだけに何かできることを探すために、現在の状況を分析するしかない。
 相手の能力は地面などに類する場所に潜ること。
 鮫であることから自分の周囲だけを常に水に作り変えて移動しているらしい。
 そしてこの場所は相手にとって有利この上ない。
 狭い路上は周囲を厚い壁と地面に挟まれていて、相手は猛烈な勢いで縦横無尽に駆け回れる。
 攻撃の角度は自由自在、壁も地面の続きとして捉えれば上方からの攻撃はもちろん、地面からの強襲も可能だ。
 対してこちらは狭い、しかし相手にとっては無限ともいえる広さだ。そしてその広さを使って強力な体当たりともいえる攻撃の繰り返しだ。まともに受けることすら出来ない。
 相手が常に自分の周囲の空間を作り変えている以上、地面や壁の概念を斬ったところで意味はない。作り変えによって新たに水に替えられてしまうだけだ。
 そしてもっとも厄介なのが、
「ほらほらどうした姫さんよう! ぼけっと考えてる暇はねえぞ!」
 こちらの思考の隙を突いてバイセンが攻撃していることだった。
 幾度となく襲ってくる全力のカットラス。
 こちらが打開策を考える隙に付け込んで、タイミングを測って襲ってくる。
 すでに避けることは叶わず、全身は細かく切り刻まれている。
 服はぼろぼろで、すでに上着は跡形もない。小さな切り傷をいくつもつけられた生身の身体が露出している。
 致命傷がないのはGCを無用に傷つけることを恐れているのか、あるいは致命傷は最後に噛むことで与えたいのか。
 後者ですね、明らかに――。
 その思考の隙を突いて、バイセンが飛び出した。
「ハッハー! 動きが止まってんぞ!」
 閃く刃が胸に食い込む。
 浅い傷が乳房に生まれ、ブラジャーを切り落とした。
「おっとすまねえな姫さんよ。だがそんなこたあ戦闘中じゃしかたねえよなあ!」
 まったく悪びれていない声でバイセンは言う。
 彼に下品な悪意があったかはわからない。だがしかし、こちらを動揺させようという悪意は存在しただろう。
「まったくゲスい方ですね。紳士の欠片もない」
「ハ! 褒め言葉だね! ぞくぞくするぜえ!」
 今は何を言っても相手のペースだ。打開策を自分が倒れる前に見つけなければならない。
 そう思った瞬間、マキナはそれに気付いた。
 バイセン様は、どのようにしてこちらの動きを読み取っているのでしょうか――。
 バイセンは攻撃の瞬間以外は地面や壁の中だ。しかし、こちらの位置を正確に突いてくる。
「――!」
 ”それ”に気付いた瞬間、マキナは刀を振りかざした。
 赤い刃が突き立つ。

 バイセンは気付いた。いや、気付かないはずがない。
 マキナの気配が消えたのだ。
 潜行中のバイセンは相手の歩く足が地面に落とす”波動”や、血の臭いそのものなど、つまり生物の気配というべきものをたどって相手の位置を割り出している。
 しかし、マキナの気配が唐突に消えた。
 どういうことだ――?
 気配が途切れれば相手を確認するには自分が頭を出さなければならない。
 しかしそれは自分が隙を見せるということだ。
 そんなもぐらたたきはごめんだね――。
 バイセンは待つ。
 生物として気配が消えることはない。何らかのトリックは使ったかもしれないが、動けば必ず気配が生じるはずだと。
 相手が勝負に出たのは明らかだ。そしてそれは相手が限界であるという証でもある。
 次が勝負だ。次に気配を見せやがったら――。
 気配が来た。地面に一つ、波動が生まれる。
 食ってやるぜえええ――!
 バイセンは突撃する。追い詰めた獲物の、一番旨いところを掻っ攫うために。
 その鮫の歯で、噛み砕くために――。

 地面からほぼ垂直に飛び出したバイセンの歯が獲物を捕らえる。
 かぶりついた獲物は――。

 ほんのり甘い、バター風味だった。

「馬鹿な!? こいつは――!?」
 中空に飛び出た状態のバイセンは理解する。自分が食った物を。いや、”食わされたものを”。
 クロワッサンだと――!?
「どうですか? ムーンバックスカフェ特製の、限定クロワッサンのお味は?」
 声は背後だ。しかし、気配はしない。
「この野郎!?」
「野郎とはレデイに向かって失礼な。種明かしをいたしましょう」
 背後から抱きつかれた。マキナの手が首に回る。そして、背中に固いものが当たり、それは”砕け散った”。
 こいつ――!?
「自分の気配の概念を切断しやがったのか!? 自分に刀を突き立てて!?」
 背後で僅かに微笑んだように感じる。しかしそれは気配ではなく、バイセンの感情が作り出したものだ。
 ”彼女の気配は切断されているのだから”。
「種明かしは終了です。クロワッサンも召し上がられましたね。それでは戦闘終了です」
 マキナが腕に力を込めた。バイセンの首が絞まる。
「暴れられては困るので、密着させていただきます」
 バイセンはしかし、強引に地面に飛び込んだ。

 地面は水だ、飛び込めばバイセンしか息は出来ない。そのはずだった。
 こいつ、腕の力が抜けねえ――!?
 水に飛び込んでもマキナの腕力は衰えない。
 何故だ――!?
 バイセンは焦る。しかし、マキナは思う。
 エラ呼吸、意外と役に立ちますね――。
 バイセンもエラ呼吸だ。首が絞められても息は出来る。
 しかし、マキナは首をへし折るつもりだ。このままでは危うい。
 畜生――!
 バイセンは悪態をつきながらもそれを折った。

 それは、二つ目のリミッターだった。


 ●


 地面から勢いよく、上半身が裸の少女が飛び出した。
 いや、正確には蹴りだされてきた。
 少女は地面に転がる。
 マキナだった。
 次いでバイセンが地面に上がってくる。
「畜生、てこずらせやがって――」
 バイセンの隠し持っていた二つ目のリミッターで、マキナはあっけなく気を失っていた。
「くそ、噛んでやる、噛み殺してやる!」
 言うが早いか、その口を開く。禍々しい、鮫のような口を。
 幾重もの歯が、鈍く光る。
「こっちだ! 早くしろ!」
 バイセンの元にかけてくる気配が幾つか。声と共に感じられた。
「ちっ、仕掛けてやがったか……」
 マキナの生命状態を常に監視でもしていたのだろう。外を自由に歩くGCである、首輪がつながれていて当然だ。
「くそ――」
 バイセンは苦々しい顔で身を翻した。
 そして徐々に、地面へと沈んでいく。
「おい、姫さんよ、今度会ったときは必ず噛み殺してやる――、必ずな」
 言い終わると同時に、バイセンの気配は完全に地面に沈んでいた。


 ●


 フリメールは、さも当然の如く言ってのけた。
「で、クロワッサンは?」
 上半身に大きめのタオルを巻いただけのマキナは、やはり当然のように返した。
「こちらです」
 買いなおしたクロワッサンの紙袋を差し出す。
 バイセンに襲われた後、永久機関の機関員に保護されたマキナは、しかしその足でクロワッサンを買いなおしていた。
 場所は水槽群の部屋。律儀なのか嫌味なのか、フリメールはそこでマキナを待っていた。
 マキナの差し出す紙袋を受け取る。
「じゃあ――」
 袋から一つ、クロワッサンを取り出して言った。
「”マキナに一つ上げるよ”」
 言われたマキナはしかし、軽い硬直を起こした。
「それは、その――」
 言葉に詰まる。
「気にしないでよ。ボクからの”好意”だ」
 好意。
 その言葉に、マキナは硬直を強くする。まるで何かに締め付けられているかのようだ。
「――いえ、結構です」
 マキナは言葉を吐き出した。
 拒否。それは彼女が今日、初めて見せる拒絶だ。
 それを見てしかし、フリメールは鼻で笑った。
「好意。嘘だとわかっていても、好意は受け取れない――」
 その目はマキナを射抜く。子供が相手の弱点を見つけて、歓喜のままに打ちのめすように。
「惨めだね、あんた」
 マキナはただ、嵐が過ぎ去るのを待つだけだ。
「その顔、醜くていいよ。ボクの大好きな顔だ」
 マキナは顔を背けたかった。だが、両の手で顔を覆うことも出来ない。
「満足したよ。このクロワッサンは上げよう。捨ててもいいよ? どうせ食べても吐いちゃうでしょ?」
 クロワッサンを袋ごと投げる。
 しかし、受け取ることすら叶わなかったそれは、マキナの胸に跳ね返って、むなしく床に落ちた。
「あんたはただ強がってるだけだ。自分の立場に納得してるわけじゃない。だから情けを受け取れない。受け取ったらそれは自分でその立場を認めてしまうから」
 フリメールは消えてゆく。身体を霧に変えて。
「せいぜい強がりなよ。強がって利用されて、ぼろきれになればいい。自分で選んだ道だからね。ふふ」
 フリメールの笑いは一度だけ、宙にこだました。
 だがそれ以上は響かなかった。
 フリメールの消えた後、その背後にある水槽に巨大な魚影が映った。
 ふと思い出す。
 それはバイセンの歯だ。
 彼の歯に感じた冷たいものは、悪寒だったのだろうか、それとも――。

 冷たくて気持ちのいい、何かだったのだろうか――。


 ●


 日記:十月一日 追記
 あの方の鋭利な歯に噛み砕かれて死ぬ自分を思うとぞくぞくしますね?
 自ら死を望むのは被検体の私に許されるでしょうか? それがただの欲望であるとしても……。


 ●


 少女の世界は続く。

 

END


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