01_全ての始まり
温もりを感じた。
周囲に感じられるものは他に何もない。ただ闇のような、光のような、曖昧なものを感じるだけだ。
隣にある、ただ暖かいものだけを感じることができる。
「これは、……双子、と言っていいのか?」
声が聞こえる。
私には何を言っているのか、既に理解できていた。
「この研究で双子ができるなんて、初めてのことだな。……どうする?」
彼らも動揺しているようだ。私も動揺している。
「これを見てみろ」
「これは……」
「片方は使い物にならん。そういうことだ」
「捨てるのか?」
「貴重なサンプルなのは変わらん。環境を変えて観察してみよう」
私の隣にある温もりが、離れていくのを感じる。
私はまだ形成できていない自分の目をそちらに向ける。離れていく温もりに向けて。
私の体が動く頃まで、私はこの記憶を覚えていられるだろうか。
●
目を閉じる。神経を研ぎ澄ます。
暗い部屋の中、雑居ビルの空いた一室。そこに黒い男はたたずんでいた。
腰に届く長い黒髪、黒いシャツ、黒いジャケット、黒いズボン。全てが黒い。ただその中で、首に巻いた白いスカーフが異様に白く胸元を飾っていた。
顔の左頬にある二本のえぐれたような傷痕が、剣呑さを物語る。しかし、微動だにしないその瞼とあいまって奇妙な印象を与える。
まるで、微笑みながら泣いているようだ。
男が瞼を動かす。
ゆっくりと開かれた彼の瞳に映るのは、暗闇に包まれた部屋。しかし、彼が見ているものはそれではない。
彼の視界には、現実の世界に重なるようにして描かれた、大量の光。その軌跡が見えている。
時に迷ったように渦を作り、時に焦るようにして飛び行く大量の光。そのひとつに手を伸ばす。
瞬間、男の姿は虚空に消えた。
●
広々とした和室。広さにしてゆうに五〇平方メートル以上。ただの和室ではなく、鏡や照明で彩られたモダンな装飾を持つ豪華な部屋だ。
だが今、その部屋は暗がりが支配していた。
最低限の照明で照らされた薄暗い部屋。壁一面に広がる窓からは、高層ビル群の夜景が作り出す光の群れが入り込んでいる。
その部屋の主は、畳の上でただ座り続けていた。
重厚な雰囲気の和服。背を正し、胡坐をかくその姿は威厳を感じさせる。
老いた顔はただ真っ直ぐに前を見ていた。
「きたか」
老人が呟く。
次の瞬間には、老人の背後で黒い風が渦を巻いた。
「今晩は、周防会長。いや、今は元会長でしたね」
風は男の形をとる。黒く、髪の長い男だ。
「地位などもはや関係のないものだ」
老人、周防は立ち上がり、振り向く。その姿に怯えや震えは一切ない。
「貴様は、確か井上とか言ったな」
「井上源三郎ですよ、元会長」
黒い男は自分の名を答えた。そして付け足す。
「但し、一〇五一代目ではありますが」
老人は鼻を鳴らした。言外に相手を信用などしていないことを意思表示している。
「わしを殺しにきたのだろう。さっさとやったらどうだ」
「なぜ殺されるかは聞かないんですね」
老人は答える。臆すこともない。
「用済みの老人が見逃されると思うほど、わしは耄碌しておらんのでな」
そうですか、と、源三郎は呟いた。その視線は僅かに周防から外れる。
「だが、ひとつ聞きたい」
老人の声に、源三郎は視線を向ける。
「孫は、あの子はどうしている?」
問い。それに対して源三郎が向けた顔は、笑みだった。
「生きていますよ。まだ」
微笑みながら答える。生きていると。しかしその言葉には、まだ、という一文をつけて。
「そうか」
その微笑みから何を感じ取れたのか、周防は再び胡坐をかいた。
目を閉じて、言う。
「あの子に伝えてくれ。一足先に地獄で待っている、とな」
「地獄ですか……」
源三郎が手を横に払う。払った右手には、いつ取り出したのかすらわからない、一振りの刀。
「あの子のためだが、この手を汚した。わしは地獄にしか行けんよ。……三途の川辺でなら顔も拝めるだろう」
そこまで言うと、周防はもはや口を開こうとはしない。
源三郎はそれを見て、ただ右手の刀を振るう。
薄闇に響くのはただ、老人の首が落ちる音のみだ。
源三郎は軽く息をつく。その顔は微笑み続けている。
振るった右手を体に引き寄せた。瞬間。
周囲の壁、四方全てにシャッターが降りる。凄まじい速さで降りたシャッターは快音を響かせて源三郎を囲んだ。
「これは――」
源三郎は思考をめぐらせる。罠だ。
老人の死をきっかけに装置が作動したと見るべきだろう。
いくつか浮き上がった思考を可能性の低いものから削除していく。残った結論はひとつ。
「――嫌がらせかな」
老人は素直に殺された。それはつまり自分が殺されることは止めようがないとわかっていたはずだ。
その上で罠を仕掛けるとすれば、ただ殺されるのは癪に障る、ということだろう。
周防老人は巨大グループの会長で、孫を人質に取られこちらのいいように使われてきた。それによって行わせた汚職が発覚し、会長の座を退くこととなった。
もはや老人が孫を守ることもできなければ、用済みの自分が殺されることもどうしようもない。ならばせいぜい最後に嫌がらせをしてやろうということだ。
「ふむ、なかなか面白い老人だったね」
源三郎はそれだけ言うと視線に力を込めた。視界に光の世界が浮かび上がる。
しかし、目の前の壁、ひいては天井や床までもが、光を遮断してそこに存在していた。
源三郎は感嘆の声を洩らさずにいられなかった。
光の世界、それは世界を形作る気脈の世界。源三郎たちはそれを研究し、操ることで人知を超えた力を使うことができる。
この短期間で気脈をここまで研究し、かつそれをこちらに知られないようにするとは――。
源三郎は胸中で老人を褒めた。褒めずにはいられない所業だ。こちらの持ちえる技術を研究して反抗しようとしていたのだから。
老人に敬意を表す。言葉にはしないが、軽く目を伏せて黙祷した。
と、気配を感じた。
気配に目をやれば、それは老人だった。
死んだはずの周防老人が、その体だけが立ち上がっていた。ぶらりと下げられた両手から、鈍い光を反射する刃が見える。皮膚を裂くようにして突き出たそれは、体内に埋め込まれたものである証だ。
「なるほど。研究は進んだが、操るまでには及ばなかった、と」
そして、それゆえに抵抗が無駄だと悟ったか――。
源三郎は結論付ける。目の前にいる老人の体はいわゆるアンドロイドなのだろう。気脈を解明してみせたが、操れなかったということだ。
おもむろに、アンドロイドが老人の頭に触れた。すると、
「南無、妙法蓮華経――」
転がった頭が経を唱えだした。
「……これはなかなか……」
嫌がらせもここまで来ると性格の悪さが窺えるね――。
アンドロイドは、経が流れたことを確認すると、源三郎に向かって突進してくる。
その姿はどことなく満足気だ。
源三郎は言葉を口にしない。ただ、顔でやるせない表情を作り――、アンドロイドを二つに斬って捨てた。
二つになってたたみに転がったアンドロイドが動かないことを確認すると、源三郎は老人の頭を踏み抜く。
経が止まった。
「さて」
おもむろに体を壁に向ける。
「帰るかね」
言うと壁に向かって刀を構えた。
基本的に気脈を用いるこの技術は、世界を構成する気脈を弄ることでそこにありえないものを生み出す力だ。気脈に乗って自由に移動することも出来るが、それは本来の使い方ではない。
つまり、目の前の気脈を遮断する物質は本来この世界にありえないような物質だ。それゆえにこれを生み出した老人の力というものは驚愕に値する。
だが、裏を返せばこの物質は、ただの物質であるとも言える。
源三郎は気脈を弄る。
自らに流れる気脈を弄り、そして手に持つ刀の気脈をも弄る。
そして繰り出されるのは、人知を超えた斬撃だ。
壁がシャッターごと切り裂かれる。
外の空気が源三郎をなぶった。
「やはり、嫌がらせだったね」
一言を残すと、彼は音もなく掻き消えた。
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