02_左の
自分の手で、自分の首を絞める。
苦しくはない。苦しくなるのが目的じゃないから。
私が今やることは、父様を笑わせることだ。
「く、苦しい、やめておくんなせえ」
苦しくもないのに苦しそうな声を出す。
目をぎょろりと開けて、コミカルな表情。
襖で体を半分隠した私の”芸”は、父様から見れば誰かに首を絞められているように見えるはずだ。
首を絞めたり殴ったり、自分で自分と格闘する。
「もういい」
父様が言った。楽しくなさそうな顔。
違う、つまらないんだ。いつもの私を見る顔だ。
「酒を注げ」
「へい」
私は言われたままにお酌をしに向かう。
父様は母様たちを回りにはべらせて、杯を上げて見せた。
襖から離れたとき、四番目の母様が足を伸ばした。私の足元に向かって。
「あ――」
私は母様の脚にもつれて転んだ。
四番目の母様が足を伸ばすのはわかっていたし、そうじゃなくても避けるのは簡単だった。
でも私は転んだ。転んで見せたのだ。
私が転べば母様たちは喜ぶのだから。
「ふふ、ヒダリノは使えない子ねえ」
母様たちが笑い出す。
私はへらへらと笑いながら父様の元へ。
「早くしろ」
急かされて、杯に酒を注ぐ。
あまり大きくない徳利は、それでも私には少し大きい。
慎重に注いでいく。
「使えん奴だ」
父様は注がれた酒をあおる。
「このような奴が我が家の人間だなどと」
術の腕は私が家で一番です。それではだめなのでしょうか。
「体もまったく成長せぬ」
母様たちのような豊満な体でなければならないのでしょうか。三番目の兄様は毎夜私で楽しまれておりますが。
「なぜお前を養子にしなければならないのか」
わかっております。私はあなたの血を引いていません。
「堪忍してくだせえ、あっしの立つ瀬がねえじゃねえですか」
つい口走る。
意識しないで抗議したけれど、染み付いた口調は戻らない。
「太鼓もち風情が口答えをするな!」
父様が投げつけた杯が右頬を打った。
多分赤く腫れ上がっただろう。加減なんか一切なかったから。
口の中に血の味がする。
「すいやせん……」
私はそれだけを言って黙った。
元から小さな体を、さらに小さくして。
「お頭様、これを――」
言葉とともに、一番目の姉様が部屋に入ってきた。手に持った一枚の紙を父様に渡す。
父様がそこに書いてある文章を読んでいる間、私は一番目の姉様を見てみる。
姉様は私のほうを見ない。私がここにいないかのように、ただ父様が手紙を読み終わるのを待っている。
そういえば、三番目の兄様に私を抱くように仕向けたのは姉様でしたね。
「ふん……」
父様は一息、鼻で息を吐く。
父様がそういう態度をとるときは、なにかしら不満げなときだ。
「ヒダリノ」
父様に呼ばれた。
「へい」
「喜べ、仕事だ」
「仕事、でやすか――?」
こんな私に仕事なんて、一体なんだというのだろう――。
●
「幹部昇進か」
細身の体にスーツ姿。オールバックの下には鋭く剣呑な瞳。見るからにとっつきにくそうな男が、しかし顔に親しげな笑いを浮かべた。
「急にどういうつもりだ? 源三郎」
スーツの男に問われて、黒ずくめの顔に傷を持つ男は答えて見せた。
「気まぐれだよ、歳(トシ)」
しかしその言葉に、歳と呼ばれたスーツの男は半笑いの顔になる。
「名前を縮めて呼ぶのはやめてくれ。土方歳三という名前があるんだ」
「ただし、五十二代目の、だな」
そう付け足す源三郎の顔は笑っている。
彼らにとって自分たちが何代目の同一人物であるかというのは、一種の自虐的な笑いの種だった。
「いいじゃないか、君の部屋に私たちだけ。他に誰もいないのだから。友好の証だよ」
源三郎はにこやかに言う。対して歳三は肩をすくめるだけだ。
「で、気まぐれだって?」
聞きなおす。
「ああ、気まぐれさ。一〇五一人目の自分にしてやっと出てきた気まぐれなやる気ってやつさ」
何とはなしに答える源三郎に、しかし歳三は問い詰める。
「こんな組織でやる気を起こすなんてありえないな。何を考えている?」
今度は源三郎が肩をすくめる番だ。
「実は本当に、まだよくわかっていない」
嘘をついている顔ではない。だが、歳三は源三郎という男が、一〇五一代目のこの男が、本心を隠すのが上手いことを知っていた。
「まあ、何を考えているのかは知らないが、あまり無茶はするなよ」
どこか寂しそうに、言葉を告げる。
「俺たちは結局、実験動物だからな」
●
イワト、という組織がある。
本部を日本に持ち、世界中に根を張っている巨大な組織だ。
既に巨大になりすぎて実態がつかめず、それぞれに独立した動きを持つ支部も多い。
表だって活動することはなく、企業や国、そういったものの裏に隠れて研究を続ける組織だ。
研究内容を聞いたものは一様に馬鹿げていると思うだろう。しかし、研究員のほとんどは本気だ。
研究内容は神を作り出すこと。
具体的には人間の精神的な進化だ。
そもそもの発端は魔術というものの研究。人間の精神を高い段階に昇華させようとする、魔術という文化の研究だった。
さまざまな眉唾物の研究の中で、人間の精神を高レベルに昇華させることで世界の成り立ちそのものに触れることができる方法を見つけたものがいた。
それが気脈だった。
そして、気脈を操作できることにたどり着いた人間が、イワトを立ち上げる。
気脈操作という魔術をより完璧にすることで、当初の魔術よりも、より即物的な神になれると信じたのだ。
こうして作られたこの組織は、非合法とされる研究や実験も厭わない。
その代表格が遺伝子実験だ。
能力のある人間の遺伝子を複製し、育て、掛け合わせ、競い合わせ、あらゆる手段でよりよい遺伝子にしていく。
そして出来た能力のある人間により、より高レベルの精神を獲得させようということだ。
遺伝子研究がもたらす恩恵は魔術だけではない。そしてそれは組織の資金源であり、世界での発言力でもある。
世界の裏で、イワトは今もなお活動を続けている。
●
「……」
少女は黙して目の前の扉を見る。
やや高級そうなマンション。まだ夕方だというのに人気のない静かな場所だ。
品のいい、しかし主張のない扉が並ぶ廊下に、少女はいた。背後は窓になっており、日が差し込む。
夕日が朱の色を少女に落とす。
朱(あか)く照らされた少女は小さかった。
小学生の中でも小さい程度の身長を地味な着物で包み、自分の視線よりも少し上にあるインターホンに目を向ける。
緑の髪と金の目が、夕日を照り返す。
やおら彼女はインターホンに手を伸ばした。
伸ばした手は左手だ。左利きの彼女にはインターホンがやや遠く感じられる。
伸び上がるようにして、インターホンを押した。
何も変化はない。だが、確かに中の住人にはブザーが鳴って聞こえているはずだ。
だが、中で目立った気配は生まれない。留守だろうか。そう思ったとき、声が聞こえた。
「鍵は開けてある。中に入りたまえ」
声と同時に鍵を外す音がする。
今外した? それにしては誰かが玄関まで来る気配はなかったけど――。
少女は疑問に思いながら、扉を開けた。
開けたとたん、少女を迎えたのはダンボールの壁だった。
ダンボールの僅かな隙間が、獣道のように奥へ続いている。玄関を抜けたところでダンボールの壁は終わるようだった。
「こっちだ。すまないが今、手が離せなくてね。少し待っていてくれないか」
左手側の奥から声がする。
ヒダリノは獣道を抜けて左、奥の部屋へと足を踏み入れていく。
歩きながら思う。
そういえば、扉の前の声はインターホンから? 機械を通したような声じゃなかった――。
考えているうちに奥の部屋に入る。
そこは一言で言えば汚い部屋だった。
部屋中に本や画材と思しきものが散乱し、中央に男が一人。
黒ずくめで髪の長い男が、カンバスに向かってペインティングナイフを振るっている。
「その辺に適当に座っていてくれたまえ」
そういう男、源三郎は少女に言った。少女の方には振り向きもしない。
少女はただ、入り口で立ったまま源三郎を見続けた。
源三郎は絵を描き続けている。左手で鼻をこすると、赤い絵の具が鼻を汚した。
やがて、源三郎は鼻歌を歌い始めた。
アップテンポの鼻歌で、気分のよさそうな顔をする。ナイフの動きも鼻歌に合わせて小気味よく動いている。
鼻歌が終わると、一区切りついたのかナイフを置いた。
ようやく少女に向き直って口を開く。
「すまないね。絵を描くとどうしてもほかの事に集中できないんだ」
振り向いた先の少女は、ただ源三郎を見つめていた。
その感情のない顔はしかし、右頬が腫れていた。
「ヒダリノといいやす。旦那の世話をしろと言われてやってまいりやした」
淡々と、独特な言い回しで口にする。
「ふむ」
源三郎は足元においてあったタオルで手をぬぐうと、ヒダリノに歩み寄った。
左手をヒダリノの頬に添えようと差し出す。
ヒダリノは動かない。しかし、その顔に明らかな感情が浮かんだ。
歯を食いしばったのだ。
「怖いかね?」
差し出した手を止めて、源三郎が言う。
「……別に」
ヒダリノは思う。痛いことには慣れていると。三番目の兄にされたことより痛いことはあまりないだろうとも。
「そうか」
源三郎の手が、腫れた左頬に触れた。
「暖かいと、思うかい?」
ヒダリノは考えた。どうだろうかと。
痛くしないのなら、暖かさは感じる――、と思う――。
そう思ったから答えた。
「一応」
どういう意味で言われているのかわからない。だから一応、だ。
「ならば少し、その暖かさに身を委ねてみてはどうだろう? 少し気持ちを楽にする、それだけで十分だよ」
源三郎が何を言いたいのか、何をしたいのか、ヒダリノにはわからない。だが、それが新しい自分の上司の希望なら、一度は従ってみるのもいいかもしれないと思った。
そっと力を抜く。気持ちを楽になどと言われても、よくわからないのでとりあえず力を抜いてみた。
源三郎の手の物理的な暖かさだけを感じる。
この人は何がしたいのだろうか――。
そんなことを考えたとき、源三郎が手を離した。
「どうかね?」
言われて、意味がわからない。
思わず呆けた顔をしていると、右頬に痛みが走った。
軽い、痛みともいえないような痛み。
同時に視界が軽くゆがむ。
「いひぇえ」
思わず痛いと口走ったが、口が思うように動かない。
源三郎に右頬をつままれていた。
「ははは、大丈夫なようだね」
今度こそ手を離した源三郎は、笑いながら言った。
「何するんでやすか――」
言って右頬をさすったヒダリノは気がついた。右頬の腫れが引いている。
思わず源三郎を見上げた。
「せっかく来てくれた世話役の顔が腫れているなんて、しまらない話だろう?」
ウインクひとつ。顔の傷がコミカルに歪んだ。
「旦那は――」
ヒダリノは口を開く。しかし、何をいえばいいのかわからず中途半端に開いたままだ。
「何も聞いてないのかね?」
源三郎の問いに、頷く。
「そうか。ではおいおい話すとしよう。まずはやってもらいたいことがあってね」
目を閉じ、真剣な顔で言う。
「玄関のダンボールを見ただろう? 実はここに引っ越して一月が経つんだが、まだ荷解きを終えてなくてね」
ヒダリノの口は開いたままだが、形が変わっていた。戸惑いから、あきれに。
「君に荷物の整理をやって欲しいのだよ」
神妙な顔で、閉じていた目を開く源三郎。真っ直ぐにヒダリノを見つめて、言う。
「頼む」
ヒダリノは息を吸った。深く。気持ちを入れ替えるように。
「旦那はやらねえんですかい?」
見上げて言う。あきれたような視線が、源三郎に刺さった。
「私はほら、整理整頓が苦手でね……」
もちろん手伝うけれど、と付け加えて、源三郎が視線をそらした。
ヒダリノの視線が痛い。
正面から、軽く頭を下げるように、もう一度口にした。
「すまないが、頼まれてくれないか」
ヒダリノは息をつく。それは嘆息で、わざとらしいものだった。
「仕方ないでやすなあ。それじゃあ初仕事といきやすかね」
源三郎に背を向けて、玄関に向かう。その足取りは心なしか浮き足立っているように見える。
「頼まれたんじゃあしょうがねえ」
源三郎から背けた顔は、しかし笑っている。
「旦那も手伝ってくだせえよ?」
「わかっているとも」
そう答える源三郎に、ヒダリノは苦笑した。
「さあて、やりやすかね」
人生で初めての、人に頼まれた仕事だった。
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