03_桜
私ってネズミだったっけ――。
本当に怖いときって、変なことを考えるんだって、そう思った。
私はとても悲しくて、何よりとっても怖い。
凄く怖くて、なのに心ではこんなことを考えている。
私今、どんな顔してるんだろう? たぶんひどくて自分でも見たくないような顔だと思う。
体中が震えていて、歯なんかちゃんと噛み合えずにがちがち音がするし、目は痛いくらいに開いて、苦しいほど呼吸が荒い。
座り込んだ絨毯は冷たく濡れていて、これは汗によるものだと思いたいなあ。
あ、口がしょっぱい。きっと涙とか鼻水とか出ちゃってるんだろうな。
私はまるで猫ににらまれたネズミなんじゃないかな。きっとネズミはこういう思いをしているんじゃないのかな。
こんなに怖いのはしょうがないよね。だって、目の前の人が拳銃みたいなものを私に向けてるんだもん。
拳銃なんて見たことがないから、みたいなもの。だけど、これって本物なんだろうな。この人の目は本気だ。
なにより殺すって言われちゃったし。
パパもママも、おじいちゃんも、みんなこの人たちに殺されちゃったんだって。この人がそう言ってた。
だから私も殺すみたい。もう生きてても邪魔なんだって。
私の大好きな人たちがみんな殺されちゃったのが、凄く悲しい。私の感情は悲しいで一杯だけど、体は怖くて震えてる。
きっと感情と体って別々のものだったんだね。
男の人が、拳銃にかけた指に力を入れるのがわかった。
あれはなんて言うんだっけ――? えーっと、そう、トリガーだ。前におじいちゃんが映画を見たときに教えてくれたやつ。
トリガーが、ゆっくりと引かれる。
私は思う。震えながら、泣きながら、小声で声にならない悲鳴も上げながら、気持ちだけは冷静に思う。
死んじゃったら、みんなに会えるのかな――。
そう思ったとき、ドアをノックする音がした。
男の人が振り返ると、開け放してあったドアをノックしてこっちを見てる、もう一人の男の人がいた。
全身真っ黒で、胸元のスカーフだけ白い。左のほっぺたに大きな傷がある、でも優しい顔の人だ。
「源三郎……。何をしにきた」
「それが幹部になった人間に言う台詞かね?」
二人は何か話し合っている。だけど私にはよくわからない。体が動かなくて、呼吸がうるさくて。他の音がよく聞こえない。
そういえばノックする音はよく聞こえたなあ。なんでだろう?
暫く話して、話し終わったのか黒い人が私の前にしゃがみこんだ。同じ高さで目が合う。
優しそうな目が私を見る。でも体は怖さに縛られたままだった。見ればさっきの男の人は部屋を出て行っちゃった。でも震えは止まらない。
私は何に震えてるんだろう? よくわからなくなってきた。
「私の言うことがわかるかい?」
黒い人が聞いてきた。自分の呼吸で凄くうるさいのに、よく聞こえた。
だから本当に何とかっていう感じだけど、頷けた。
「そうか」
言うと、黒い人はポケットから煙草を取り出して火をつけた。この部屋って禁煙じゃないんだ。今更知った。
「まずは落ち着くといい」
黒い人が煙草の煙を吹きかけてきた。私はまだ十七歳だから、そんなことしちゃいけないんじゃないかなあ。
そう思ったけど、その煙草の煙はとてもいい香りで、私の好きな駅前のカフェで入れてくれる紅茶に似ているって思っちゃった。
「どうかね?」
言われて初めて気がついた。私のあんなにうるさかった呼吸が、もう静かになってる。いつもと同じような、静かな呼吸。
でも、なんだか頭がもやもやするなあ。
「私は周防会長、君のお祖父さんの知り合いだよ」
ああ、おじいちゃんの知り合いなんだ。なんだか急に安心してきちゃった。
そう感じたら、急に涙が出てきた。さっきまでも出てたけど、この涙は違う。おじいちゃんへの涙だ。
だって死んじゃったって聞かされたもん。
「いろいろ辛いと思うが、まずはこれを吸ってみてくれないか?」
咥えていたタバコを私に差し出す。
でも私未成年だし、煙草は吸っちゃいけないんじゃなかったっけ?
なんだか考えがまとまらなくなってきた。
「大丈夫さ。これは見た目が煙草と同じだが、よく見てみると煙草じゃないだろう?」
言われて煙草を見てみると、確かにそれは私が見たことのあるものじゃなかった。なんだか発泡スチロールに直に火がついてるみたいな、不思議な棒だ。
これなら吸っても平気かな――。
「ゆっくりでいい。少しずつ、ゆっくりと」
言われるままに煙草みたいな煙草じゃないような、そんなよくわからないそれを吸ってみた。
吸い終わって、体に入ってきた煙を吐く。
なんだろう、だんだん眠くなるような――。
「少し休むといい」
白い棒を口にしたまま、私は眠くて目を閉じた。
最後にちょっと、このぐしゃぐしゃの顔で煙草みたいなそれを咥えてるのは、人には見せられないなって、そう思った――。
●
紅茶が美味しい――。
日の差し込む窓辺で、少女は思う。
両脇にひとつずつ、二つに結って分けた髪。ツインテールというには短く、キャンディの包み紙のような髪型。身に着けているのはやや暗い色のセーラー服。極一般的な学生という風情の少女だ。
ティーカップを口元に運び、朱(あか)い液体を口内に滑り込ませる。
香りが広がり、その広がりとともに嚥下した。
「美味しい――」
思わず呟く。顔は自然と笑顔になる。
窓から見える光景は、彼女の目線の高さに人々の足が見える。半分だけ地下になった窓辺から見える駅前の光景は、不思議な非日常の世界だ。
いい店だと思う。
少女は店内を見回した。
暖かな木の内装が落ち着いた空気を作る一方で、隅々に置かれた不思議なオブジェクトが非現実的な空間を作っている。
あの壁に立てかけてある大きなスプーン、巨人さんが使いそうだな――。
そんな思いを馳せて、少女はこの空間を楽しんでいた。
再び紅茶を口に運んで思う。
そういえば、私はどうして紅茶が好きなんだっけ――?
思考をめぐらせるが、答えは浮かんでこない。先日までは覚えていたような気もするのだが、もやがかかるように思い出すことができない。
唐突に、老人の顔が頭に浮かんだ。
誰だっけ――?
やはりわからない。なんだか重要なことを忘れている気がする。だが――、
思い出せないなら、しょうがないよね――。
とりあえず今は紅茶が美味しい。それでいいではないかと納得する。
机の上で、静かに携帯端末が震えた。メールの着信だ。
「マツリちゃんからだ――」
着信表示に友人の名前を確認した彼女は、メールをチェック。
件名:世話のかかる隊長へ
本文:早くきなさい。
簡潔なメールだ。だが、彼女にはそれだけで十分だった。
何しろ端末が表示する時計の時間は十七時三分。約束の時間を三分オーバーだ。
「うそ!? もうこんな時間!?」
慌てて店を出ようと席を立ち、あわてるままに席に戻ってきた。
「お、お会計! お会計しなくちゃ!」
少女が店を出るまで、五分を要した。
●
「マツリちゃんはさ――」
夕刻を回ったファミリーレストラン。その一角で呟きが生まれた。
「なんでこの部隊に入ったの?」
問いを呟くのは小柄な少年。黒い半ズボンに白いワイシャツ、黒いサスペンダーが印象的だ。
短く切りそろえたさらりとした髪の下の顔は、どう見積もっても中学生程度のまだ幼さが残る顔だ。
少年の席に、彼以外の人影はいない。
しかし、彼の問いには答えが返ってきた。
<ちゃん付けで呼ぶのはやめてくれないかしら>
返ってきたのは少女の声。はっきりとした肉声だが、少年以外の人間には聞こえていないようだった。
「鼓膜を直に震わせて声が聞こえるのって、なんだか耳がかゆいよね」
<話をそらさないでくれる?>
少年はしぶしぶという様子で答えた。
「ちゃん付けはだめ?」
<私のほうが三つも歳上よ>
うーん、と少年はわざとらしく迷ってみせる。
「じゃあ、マツリさん?」
向こうの返答に間が空いた。
<それはそれでかゆいわね>
「だって、僕達の間柄って先輩と後輩じゃないし。呼び捨ては嫌でしょ?」
少年の耳に聞こえるのは嘆息だ。
<いいわ、ちゃん付けで>
少年は笑みを見せた。相手に見えているかはわからないが。
「じゃあ、今度はマツリちゃんが僕の質問に答えてね」
最初の問いだ。
<気がついたら入っていたわ。何かおかしい?>
少年は思う。
十分おかしいよね――。
<シロウもそうでしょ。疑問を感じるところじゃないわ>
「うーん、そうだね」
シロウと呼ばれた少年は納得する。確かに疑問ではあるが、深く考えようとすると納得してしまう。なぜかはわからないがそれでいいような気もする。
<そろそろサクラが来るわ>
言われて携帯端末を見る。十七時八分だ。
<なんでさっき私にメールさせたの? あなたがすればよかったじゃない>
唐突に言われた。あなたはサクラが好きなんだから、とも。
「でもさ、仕事のことだし。それは副長のマツリちゃんからメールすべきでしょ」
耳の奥で軽く息を吐く音が聞こえた。どういう意味かはわからない。
<シロウって真面目よね>
言われて思う。そうかな、と。そうかもしれない、とも思った。
「――かもね」
シロウが答えたとき、レストランの入り口を勢いよく開けて少女が入ってきた。息を切らせている。
「あ、サクラちゃんがきたよ」
時間を確認する。十七時九分。遅刻は十分には満たなかったようだ。
サクラに手を振ってみせる。
こちらに気づいたサクラが、店員を丁寧に振り払ってこちらへ走ってきた。
「ごめん! 遅くなっちゃった!」
キャンディの包み紙のような髪を上下に揺らして頭を下げる。
「大丈夫だよ、まだ開始時間まではあるから」
シロウが向かいに座るよう勧める。
ほんとごめんねー、などと口にしながら、半ば笑ってサクラは椅子に座った。
シロウがサクラに右手を差し出す。サクラも何も言わずにその手に自分の手を絡めた。
<どう? 聞こえる?>
マツリの声。それはサクラにも聞くことができた。
「うん、大丈夫だよ」
サクラの返事に、シロウは手を離す。
「ありがとう、シロウ君」
「いつも通りでしょ。わざわざお礼はいらないよ」
普段何気ないことでもサクラは感謝を忘れないタイプだ。
<会話が通じたところで、隊長から作戦を確認して欲しいんだけど?>
マツリが促した。
「毎回思うんだけど――」
サクラが困り顔で言う。
「なんで私が隊長なのかな?」
向いてないのに、と言葉が続く。
<ボスの言葉、忘れたわけじゃないでしょ? 力がある人間は人をまとめるだけの素質があるって>
彼らのボスは彼らにこう言った。力のない人間が統率力を持つには時間がかかる。力のある人間は他人からの信頼を得やすいから適任だと。
<端的に言えばサクラが私達の中で一番強いからよ>
マツリが結論付ける。
「でも――」
サクラの迷いをマツリがさえぎった。
<あまり時間もないから、仕事が終わってからにしましょう>
マツリの言葉はにべもない。シロウが半ばあきれたような顔でフォローに回る。
「僕達がサポートするから、大丈夫だよ」
「……うん」
サクラが弱気なのはいつものことだ。この会話もいつも通り。慣れたものだ。
「じゃあ、確認するね」
サクラが仕切りなおす。一度仕切りなおしてしまえばいつも通りだ。
「今回のお仕事は、製薬会社の社長さんの暗殺。――で合ってるよね?」
いつも通りの物騒な台詞だった。
●
都心から離れた住宅街の一角。異様なまでに高級そうな大きな一戸建て。それがターゲットの家だ。
ターゲット。標的。つまりサクラたちが暗殺する目的の人物がいる。
家からやや離れた公園に、サクラとシロウはいた。
時刻は十八時二十五分。
ベンチに座って、サクラは問いかけた。
「ねえシロウ君。ターゲットの人が社長やってる会社って、私達の組織の会社なんでしょ? なんで争ってるのかなあ」
シロウはひとつ、うん、と答えてから口にする。
「内部こーそーっていうやつだよ」
とりあえずそれっぽい単語を言ってみた。的は得ていると思っている。
「仲間なのに争うって、変な話だよね」
「大人はいろいろあるんじゃないかなあ」
シロウは単語を言ってみたものの、あまり詳しいことはよくわからない。
「あ、それって考えるのやめてるだけでしょー」
サクラはそう言うが、とりあえず自分もそこまでよくわからないのでそれ以上の追求はしない。
「私達の仕事は社長さんの暗殺をして、この手紙をそこに置いてくるだけだもんね」
ポケットから小さな封筒を出した。横書きのもので、中身は知らされていない。
「何が書いてあるんだろう?」
シロウは口を開く。今度はちゃんと把握した内容だ。
「脅迫状、だと思うよ」
つまり、社長の暗殺は見せしめだ。次の社長としてこちらに都合のいい人材を登用しろという流れであろうと推測できる。
「問題になったりしないのかなあ」
サクラは思う。そんなことしたら大変だなあと。
「そんなことをしに行くのは僕らだけどね」
シロウが言う。サクラの思いは意識せず口に出ていたようだ。
「それは組織の人が処理してくれるんじゃないかなあ。いつもそうだと思うし」
彼らの仕事はこれが初めてではない。すでに幾度か同じようなことをしている。
サクラが相槌を打つ。それを合図にしたかのように、マツリの声が聞こえた。
<ターゲットが帰ってきたわ>
サクラが答えた。
「じゃあ、もうそろそろだね」
そろそろ仕事を始める。その言葉に、にわかに彼らの空気が固くなる。
と、音楽が鳴った。それは携帯の着信音で、太鼓と笛のお囃子だった。続いてひとしきりの拍手が鳴って音がやむ。
「あ、ごめん。携帯の設定マナーにしてなかったや」
シロウが携帯端末を取り出す。
「シロウ君の着信音、なんだかすごいね……」
「ヒダリノちゃんからの着信はこれにしてるんだよねー」
シロウの言葉に、残された二人は同時に思った。
ああ、わかるわかる――。
シロウが確認したメールを読み上げる。
「――晩飯はボスの作ったカレーでやす。どちらさんもお気をつけて、お仕事がんばってくだせえ。――だって」
「あ、今日はカレーなんだ」
<そうみたいね>
にわかにマツリの声が明るくなったように聞こえる。
「マツリちゃん、カレーが好きだから」
サクラが笑った。
<別にいいでしょ。カレーが好物なんて普通よ>
マツリは流しているが、ちょっと恥ずかしそうな声だ。
「今日はヒダリノちゃんがレオ君たちのサポートしてるから、ボスが晩御飯作ってるんだね」
シロウの言葉に場が少し和んだ。
「ボスはカレーしか作れないから」
サクラの言葉に、シロウも顔が笑みになる。
<さっさと仕事を終わらせましょうか>
マツリの声も笑っている。
「じゃあ、始めようか」
笑いながら、サクラは宣言した。
夕闇の風とともに、サクラとシロウの姿は掻き消えた。
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