06_薫




 夜の暗い路地裏で、俺は食事をしていた。
 いや、生きるために食い物を食うことを食事というのなら、俺のこれは食事じゃない。
 なんと言えばいいか。俺は頭が悪いわけじゃないが、学があるわけでもないから言葉にするのは苦手だ。分かりやすく言うならまあ、単純にものを食ってる。
 深夜の食事をするとは思えない時間に、路地裏というおよそ食事をするとは思えないような場所で、”およそ食い物とは呼べないそれ”を俺は食っている。
 食い物とは呼べないそれ。肉の塊だ。
 どう見てもそうとしか呼べない。強いて言うなら人体のように見えなくもない。人間のパーツをちぐはぐに繋ぎ合わせてただの肉の塊にしたような、そんな代物だ。
 ただ、性別だけは分かる。女だ。見てくれで判断は出来ないが、俺はこいつが女だということを知っている。
 知っているとはいえ、こいつはダメだ。ダメだから食う。食って俺の中に入れば、”またやり直しが利く”。

 ぴぃ。

 肉の塊から音がした。

 ぴぃ。

 再び同じ音。
 いや、違う。声を上げているんだ。この肉の塊が。
 断末魔なのか、それともほんのひと時とはいえこの世に生まれ出たという存在の主張なのか。どちらとも分からないが、こいつは声を上げている。
 出来損ないのような目が、俺を見つめた。
 その瞳に映ったのは、間違いなくふけた男だ。髪は白髪が混じり、口元には皺が浮かぶ。ただ、目元だけが異様な若さをぎらつかせている。そんな俺が映ったはずだ。
 俺は思う。

 もうお前は、俺を見ても分からないだろう。

 俺は再びそれを食い始めた。
 肉の塊はもう、声を上げることはなかった。


 ●


 デパート。そこは様々なものを取り扱う総合商店だ。しかし、今時さらに安い総合商店があり、それらはスーパーマーケット、略してスーパーなどと呼ばれる。
 デパートは差別化も含めてスーパーよりも良いもの、高いもの、そしてより豊富な商品を取り扱う道を選んだ。それゆえに、そこに集う買い物客はちょっとした贅沢をしたいときにデパートにやってくる。
 彼女もその一人だ。
 食品売り場で籠を持ち、肉を眺めて思案する女性。清楚なワンピースにかかる金の長髪と青い瞳はいかにも欧米人という風情。しかし、その顔は日本人から見ても幼い顔立ちだ。
 下手をすれば十代に見られるようなその女性は、肉の入ったパックを一つ、その手に取った。
 |薫《かおる》と付き合い始めた記念日だから、このくらいはいいよね――。
 そう思い、松坂牛と書かれた写真が貼られた肉のパックを籠に入れる。
 薫はお肉好きだから。お野菜安くすればいいよね――。
 さらに思う。
 このパック、量が少ないけど私が食べる量を減らせばいいかな――。
 幼く見える彼女だが、寄る年波には勝てない部分もある。あまり考えたくはないが、体重の管理にはさらに気をつけるべき年齢になったと、そう思う。
 大事な人のことを考えていたら複雑な心境になってしまった彼女は、気を取り直して肉売り場から体を剥がした。
 振り向いて、野菜売り場に向けて数歩を歩く。
 声がかかったのはその瞬間である。
「やあ、マクビティ女史」
 彼女は振り向いた。勢い良く、声のした方に。
「こんなところで会うとは、奇遇だね?」
 その男は彼女がさっきまで立っていた肉売り場の、そのコーナーの淵に寄りかかるように立ってこちらを見ていた。
 数瞬前まで彼女が立っていた場所に、唐突に人が現れることができるはずはない。しかし、彼女は知っていた。目の前の男ならそれが出来ると。
 井上源三郎という男なら可能だと。
「何をしに来たんですか?」
 彼女の顔には特に表情はない。しかし、言葉には棘をつけた。
 会いたくない男だ。今の彼女にとって最も出会ってはならない人物だった。
「そうとげとげしなくてもいいと思うがね? クリス・マクビティ女史」
 人を苛立たせるのが上手い人ね。嫌いだわ――。
 そう思い、彼女、クリスは言葉を紡ぐ。
「組織の暗殺部門、その幹部である貴方が自ら会いに来るなんて、警戒するなと言う方がおかしいと思うわ」
「ごもっとも」
 源三郎は肩をすくめてみせる。敵対感情を持つクリスとしては苛立たしいことこの上ない。
「では要件だけ済ませよう」
 そういった源三郎の隣を、壮年の女性が歩き過ぎて行った。女性は源三郎たちのことを気に留めている様子はない。
 そしてそれが当たり前であるかのように、源三郎は言葉を続けた。
「組織はじきに、”彼”の監視を解くつもりだ」
 クリスは息を呑んだ。それには二つの想いがある。一つは”彼”が自由になることへの喜び。そしてもう一つは――。
 私は”彼”の前から消えなければならない――。
 悲しみ。その感情がクリスを襲う。しかし、今ここでそれを源三郎に悟られてはならない。それは”彼”にとってトラブルとなるからだ。
 勤めて表情を崩さずに、クリスは言う。
「そう、私の任務も終わるわね」
 どう受け取ったのか、源三郎は変わらぬ調子で話を続ける。
「そのうち組織から|君《きみ》に通達が行くだろう」
 ふと、源三郎の顔が緩んだ。眉をハの字に、気遣うような、笑うような、そんな表情だ。
「寂しいかね?」
 クリスは思う。寂しいと。しかし、ここでそれは訴えるべきではなく、ゆえに。
「まさか。お仕事ですから」
 そう返した。
「そうかね」
 眉はハの字のまま、目を閉じて源三郎は肉売り場のコーナーから身を剥がす。
「では、嫌われ者は退散しよう」
 源三郎は一言だけを残すと、クリスに背を向けて歩き去った。
 クリスは源三郎の背中が見えなくなるまで、ただ無表情な顔で彼の背中を睨んでいた。


 ●


 デパートの中、クリスから見えなくなったところで源三郎は口を開いた。
「どうだったかね?」
 歩みを止めない源三郎。その隣にいつの間にかヒダリノが並んで歩いている。
「へい、嘘を隠しておりやすな」
 ヒダリノは答える。それはクリスに対するヒダリノの分析だ。
「やはり、”彼”に変化があると。そういうことか」
「おそらく」
 クリス・マクビティは組織に隠し事をしている。それは”彼”についてのことだ。クリスに伝えた事柄は、それを確かめるための嘘だった。
「どうしやすか?」
 ヒダリノの問いに、源三郎は答えた。
「組織に報告する。クリス・マクビティは”彼”の監視において嘘の報告をしているとね」
 ヒダリノは頭を掻いた。参ったとでも言うように。
「旦那は容赦ないでやすなあ」
 しかし源三郎は言い切る。
「今ここで組織の信用を裏切るわけにはいかない。こちらの計画が台無しになってしまうからね。まだ暫く、時間は必要さ」
 そのためには余計な嘘はつかない方がいい。そう言い切る。
「幻滅したかい?」
 聞いてみる。しかし、ヒダリノはあっけらかんと笑って言った。
「あっしは旦那の隣で生きていくと決めたんで。ついていくだけでさあ」
「なんとも心強い部下だね、まったく」
 再び眉をハの字にした源三郎に、ヒダリノは進言する。
「あっしたちも買い物して帰りやしょう。冷蔵庫の中が今、からっぽなもんで。へへ」


 ●


 鮮やかなピンクが、緑や白、茶色といったほかの色彩で包まれている。それらの色彩が炎にさらされると、良い香りが立ち込めた。
 くつくつと、旨そうな音が立ち上がる。
 すき焼きであった。
 すき焼きを見て、男、|猪神薫《ししかみかおる》は想いを得る。
 これはいい肉に違いない――。
 黒髪の下にある優しげな顔立ちを、思わず嬉しそうに細めてしまう。
 薫は肉が好きだ。理由は特にない。単に好きなものであるということに理由など求めない性格だ。
 程よく煮えて、薄い桜色になった肉を箸でつまみあげる。
 手元のとき卵に着地させ、そこで掴みなおす。
 口に運ぶ。
 旨い――!
 柔らかな肉から甘い肉汁がにじみ出て、噛むたびに濃厚な味を感じさせる。
 思わず顔がほころぶ。
 幸せになれる肉であった。
 肉を一切れ堪能したところで、薫は目の前の事象に眼を向けることにした。
 目の前の事象。それは目の前にいる自分の彼女が呆けたまま生返事しか返さないことであり、その彼女とはクリス・マクビティだった。
 これは重症だな――。
 薫は思う。何か思い悩むことでもあっただろうかと。
 とりあえず原因が自分にあるかを思いつく限り検討してみたものの、特には思いつかなかった。
 強いて言えばこの年齢でいまだにプロポーズをしていないことだろうか。
 しかしこの問題はお互いに納得しているはずなんだがなあ――。
 薫は運送会社に勤めており、荷物の管理などを主に行う仕事をしている。貧乏とまでは言わないが、裕福ではない。クリスにパートに出てもらってバランスをとっている。
 それが直接の原因とは言いたくないが、そういうことも含めて結婚式とか家族計画といった金のかかりそうなことはお預けという結論を出している。
 しかし、薫は考えた。
 そういえばニュースでやっていたな。三〇歳から女性の妊娠が難しくなるとか――。
 薫は三二歳。クリスは三〇歳。あまりその手のことを引き伸ばしていい状況でもないのかもしれない。
 とりあえず、声をかけてみようと薫は口を開いた。
「クリス」
 呼んでみる。しかしクリスは呆けたまま答えない。クリスの右手の箸が当てもなく宙を彷徨っている。
「クリース?」
 もう一度呼んでみた。しかし結果は同じだ。
 仕方ないのでちょっと結論を伝えてみようと思い、薫が言葉を口にした。
「結婚しようか?」
「は――!?」
 クリスの箸が、宙を舞った。
 いや、正確には驚いたクリスが両手を勢い良く振り上げたために、持っていた箸が投げ出されたのである。
 箸がクリスの後方に着地。同時にクリスの口が大きく広げられた。あ、という母音の形に大きく広がる。
「はああ!!!?」
 驚きすぎて同じ音しか口から出ない。
 薫は思う。
 埴輪のようなポーズだ――。
 そのポーズを一瞥した後、思いを噛み締めた。
 可愛いやつよ――。
 猪神薫三二歳。少し一般人からはずれた感覚を持っている。
 しかし、ついにクリスは埴輪をやめた。
「何がどうなってどうしてそうなったの!?」
 顔中汗だくで、程よく赤くなりながら、薫を責め立てるしかなかった。


 ●

【報告】
 猪神薫に変化なし。依然として魔術適性はn

 いつもと同じ報告を送る途中で、クリス・マクビティは手を止めた。
 パソコンの画面が入力途中で止まる。
 机に広げたノートパソコンの画面には深夜二時を表すデジタル表示。それを見つめながらクリスは思う。
 薫に魔術適正は、ある――。
 クリスはイワトから派遣された監視員だ。
 監視対象は薫。詳しくは聞かされていないが、薫はイワトにとって興味の対象らしい。その薫を監視して、魔術に対する適性があるかなどを報告するのがクリスの仕事だった。
 クリスはイワトの末端構成員だ。しかし、少々勘がいい程度に気脈操作術式というものに親和性を持っていた。ゆえに薫の適性を見抜くための監視員であった。
 薫の魔術適性は組織に報告してはいけない――。
 それがクリスの結論だ。
 イワトは薫のことを研究対象として見ている。適性が明るみに出れば、薫はイワトに拉致されてしまうだろう。
 それだけは避けたい。それがクリスの想いだ。
 クリスが薫と出会ったのは大学の英会話サークル。もちろんクリスは監視目的で薫に近づいた。組織の言うとおりに薫の恋人になり、逐一薫を監視することに成功した。
 だが組織の目論見と違ったのは、クリスが本気で薫に恋をしたことだった。
 以来、クリスは十年以上薫を監視し、嘘の報告をしてきた。
 クリスは再び手を動かし、キーボードを打つ。
 完成した報告を送信。内容はもちろん『適性なし』だ。
「まだ起きてるのか?」
 不意に声をかけられ、なるべく慌てないように振り向く。
「薫こそ、寝れないの?」
 振り向いた先の薫は、眠そうに頭を掻いた。
「いや、トイレに起きたんだ。まだ明かりがついてたから気になってさ」
 柔和な笑みで言う。
「あまり無理しないで寝ろよ」
「うん、ありがとう」
 クリスは思う。薫は優しい。深夜まで起きているのはクリス自身の選択だ。特にクリスが何をしているか把握していない薫は、クリスが夜更かししたいからしているとしか思わないだろう。
 だが、それでも薫は言う。無理はするな、と。
 薫の自然体の優しさが、クリスが薫に惚れている一番の理由だった。
「もう寝るわ。薫も寝ましょう」
 パソコンを閉じ、薫とともに寝室に向かう。
 一つのベッドで薫の横に潜り込み、思う。
 組織から、抜けよう――。
 簡単なことではないはずだ。しかし、そうしなければ薫とともにいることは出来ない。薫が監視対象でなくなるなら、自分が組織と無関係にならなければ一緒にいられないのだ。
 源三郎の顔が浮かんだ。一見優しそうな、しかし、死神の親玉の顔だ。
 クリスは思う。いや、思うのではない、これは勘だ。気脈に対する勘のよさか、あるいは女の勘なのか。しかし、確信を持つ勘だ。
 源三郎は、敵だ――。
 組織を抜けようとする自分に対してのものか、薫のことに感づいたのか、どちらにしろ、彼は自分の敵になるだろう。
 そう、予感がしていた。


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