紅林寮管理日誌その2 ウブ女(め)の冬


登場人物
キヌ:ふんどしの聖人
駿:被害者その一
スィス:被害者その二
メルヴ:被害者その三



 ダイニングキッチンと思しきその部屋に、一枚のホワイトボードがくくりつけられている。朝日に照らされたボードには、こう書かれていた。
「ハッピーふんどしの日」


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 駿は珍しく早起きをした。馬の半獣人特有のたてがみを首筋になでつけ、尻尾もかるく手ですく。
 顔を洗った。歯を磨いた。服を着替えた。
 鏡の前で警備員の証である制服の襟を正す。まったくもって彼らしくない行動だ。
 なぜなら今日は……、
「ん~~~!! 二月十四日、バレンタインデー! チョコレートをがっぽがっぽ貰うぞ~~~!!!!」
 駿は部屋を飛び出す。目標は紅葉寮の門前にいるはずなのだから。


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 紅林寮。『こうりんりょう』と読む。やや古めかしい洋風建築に薄緑の外壁のこの寮は、利用者から紅葉寮(もみじりょう)と呼ばれている。広めの庭にシンボルになっているイロハモミジを幾本か生やしたこの寮は、朝日の中にその姿を揺らめかせていた。
 その寮を背にするように、庭の門前を箒で掃き掃除をしている女性がいる。
 緑の長い髪を一束に結い上げ、女性だてらに紋付袴。火の入っていない煙管を咥え、箒を握るその女。寮監のキヌだ。
 キヌは箒を動かす手を止めると、じっと目を閉じた。
 今日は、いい一日になるだろう――。
 そう思う。
 何しろ準備は万端だ。この日のためにちゃんと用意した『それ』を、しっかりと羽織の袂に入れてある。ちゃんと人数分だ。手渡しできない者に関しては、すでに部屋に届けておいた。
 再び思う。今日はいい一日になるのだと。
 思う内に、足音が聞こえてきた。さあ、一日の始まりだ。決意とともに、振り向く。
「キヌさん、はよーっす!」
 駿だ。しかし、それもキヌの予想通りだ。だからチョコレートを期待する彼に渡すものは決まっていた。
「ここ一番で、使ってやりな――」
 慈愛。まさに慈愛と言える、慈しみの目。そんな目でキヌが渡したそれは、真っ赤なふんどしだった。


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 二月十四日はふんどしの日である。とある世界の日本という国で、西暦二〇一一年に制定された。
 しかし、図書館はふんどしの日がある日本という国の世界ではない。異世界だ。
 だが、この図書館の一部の人間は、ふんどしの日を骨身に染みて分かっていたのである。
 日本がある世界の、それよりもずっと未来の世界から来た一人の女によって、であった。


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「スイスイス~ダララ~タ~スラスラスイスイスイ~」
 嫌な予感がする。
「スイスイス~ダララ~タ~スラスラスイスイスイ~」
 いや、これは予感ではない。この寮に住み始めて一年も経っていない若輩でも分かる。
 確信だ。
 その証拠に、廊下から不吉な歌声が近づいてくるではないか。
 自室で本を読んでいた少女、スィスはそそくさと身の回りの本をかき集めた。そして思う。
 鍵をかけて居留守を使えばいいじゃないか――。
 思った瞬間、顔を上げる。そういえば鍵は閉めていただろうか。
「よう、スィスー! 元気してるかい!?」
 答えは否。確信がドアを開けて入ってきた。それは、キヌの顔をしていた。
「ええと、キヌさん、コンニチハ」
 素の喋りに愛想が無い性格とはいえ、目上の者に敬語を使うことは出来る。だが、今回は声が硬かった。
「鍵はちゃあんとかけなよう。無用心じゃないか。変な奴が入ってきても知らないよう?」
 ええ、そうですね。そう何とか答えたスィスは思う。まったくその通りだと。
 何が面白いのか、キヌはげへへと笑った。スィスの知るキヌは確かに親父臭い。だが、今日のキヌはどう見てもおかしかった。
 一言で言えば、テンションが高い。
 ゆえに聞く。
「何かあったんですか?」
 問われてキヌは笑った。にんまりと。
「今日が何の日か、知ってるだろう?」
 スィスの頭にバレンタインデーが浮かぶ。ははあ、このひとは年甲斐もなくバレンタインデーに浮かれているのか。そう結論付けたスィスは口にした。
「ああ、バレン――」
 しかし、その言葉は最後まで形にはならなかった。唐突に、キヌが布を広げたのである。
 布、それは淡いピンク。ピンクのふんどしだった。
「ハッピーふんどしの日!」
 キヌが口にしたその言葉は、まるで異国の言葉のようだ。さっぱり意味が分からない。
「き、キヌさん、これはどういう……」
 言いよどんだスィスにかまわず、キヌは素早くスィスの背後に回る。
「二月十四日はふんどしの日、日ごろの感謝を込めてふんどしを贈る日だよ」
 嘘だ――!
 間髪いれずにそう思うが、あまりのことに動くことを許されない体にキヌの手が回った。ふんどしの紐が腰に回る。
「ほうら、サイズもぴったりだ」
「いつの間に計ったんですか――!!」
 半分泣きたい気持ちに怒気が混ざる。もはややるせない。
「勝負するときはこのふんどしを穿くんだよ。いいね!?」
 そう言い残したキヌは、くず折れるスィスを残して去っていった。


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 その日、メルヴは休日だった。
 前日までは空いた時間で職員にセクハラして回ろうなどと考えていた。だが、朝起きてダイニングキッチンのホワイトボードが目に入ったとき、気分が変わった。
 メルヴは覚えている。ややポップですらあるあの文字を見た瞬間に感じた、得体の知れない感覚を。
 背筋が、ぞくりとした。
 ゆえに。メルヴは今、紅林寮を抜け出して図書館の中庭に身を潜めていた。
 見つかってはいけない。そんな気がする――。
 中庭の植え込みの影で、そう思う。見つかったが最後だ。何が最後なのかわからないが、とにかく最後な気がした。
「メールーヴっ!」
 唐突に、背後からの声。感じたのは身の危険だ。ゆえに彼は、全速力で飛び出した。前へ、声のしない方へ。
「まてよメルヴー!」
 なんだか浮かれた、メルヘンといってもいい雰囲気のかわいらしい声で、キヌが追いかけてきた。
「キヌさん、その手に持っているものは、何だ……!?」
 キヌが手に持っているもの。赤く長い布に、同じく赤い紐が縫い付けられたそれ。まごうことなきふんどしである。
 しかし、メルヴはふんどしを知らない。図書館勤務半年である彼は、そのふんどしを毎年キヌが無理やり配っているのももちろん知らない。
「えへへ、いいものだよう」
 怪しく笑うキヌ。走る速度は緩めない。
 なぜかは分からない。なぜかは分からないが身の危険を感じるメルヴは、実力行使に出ることにした。
「てい!」
 走りながら、後ろの地面を凍らせる。お得意の氷魔法だ。単純なやり方だが、相手の足を止めるには実に有効な方法だった。しかし。
「そんなに嫌がるんじゃないよう」
 キヌは走った。地面に足を下ろす瞬間、キヌの超高速活動細胞(ハイパーモーターセル)がキヌの足に人知の及ばぬ力を付与する。
 キヌの足が、氷ごと地面を踏み抜く。そのまま走った。
「ほ、本気だな、キヌさん……!」
「当たり前じゃないかあ」
 怪しい笑顔、踏み抜く大地。されどキヌの走る速度は落ちない。落ちないばかりか、超高速活動細胞によりスピードが上がる。
「う、う……!」
 メルヴはキヌを傷つけるつもりはない。なんだかんだで世話になっている優しい寮母だ。ただ、ちょっと今は怖いだけだ。
 遠慮する以上、キヌに反撃ができない。
「おーいつーいたっ」
 キヌの、ちょっとかわいらしくさえある声。ふうと、キヌの吐いた吐息がメルヴにかかった。
「や、やめて!」
 思わず声を出したそのとき。

 きゅきゅ。

 紐がこすれ、縛る音。
 次の瞬間、走り抜けたキヌの後ろで、メルヴの腰に赤いふんどしが巻かれていた。
「また、つまらぬモノを包んでしまった」
「あふん……」
 抜けるような声とともに、メルヴは崩れ落ちた。
「もう、お婿にいけない……」
 メルヴの涙は、大地に吸い込まれていったのだった。


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 今日も、いい一日だった――。
 キヌの自室。管理人室でもあるそこで、ビールの缶をあおりながらキヌは思う。
 古株で心得ている寮の住人にはすんなり渡し、まだ経験がない新人には手ずからふんどしを穿かせる。
「ああ、新人にふんどしを巻くこの快感……。いつまでたってもいいものだねえ」
 うっとりした顔で、ビールをあおった。

 その夜、紅林寮からは数名の泣き声が絶えなかったと言う。



END


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