・歌と記憶

登場人物
ヒダリノ
キヌ
カプタール(ひつじ様作)

 


 ――。
 歌。目の前で歌われるそれは、鼻歌だ。
 緩急が強く、明るい曲調。ポップスか、あるいはロックか。そんなところだろう。
 何の気なしに聞いていれば、聞き流してしまいそうな鼻歌だ。
 しかし、彼女は気になった。ゆえに聞く。
「ねえ、それ、何の歌だい?」
 昼下がりの緩やかな光。テラスの窓際でその光に包まれながら、ティーテーブルに腰掛けた女が聞いた。
 ポニーテールに結った緑の長い髪が陽光を弾く。気だるげな金色の瞳は十代にも見えるその外見には似つかわしくない。小柄で華奢な身体を着物と袴で包んだ時代錯誤な装いは、男物の紋付羽織りを着込むことでさらに異様な印象だ。
 鼻歌の主は彼女を見て、しかしいつもどおりの口調で答えた。
「へえ、あっしが世話になった旦那がよく歌っておりやしたんで。あっしも耳に残っちまった歌でさあ」
 答えた鼻歌の主の髪もまた、陽光を弾く緑だった。

 ティールーム『ねむの木』。図書館の食堂にあるテラスに面した場所に作られた小さな店だ。
 クラシックなつくりでシックな店内に、二人の娘はいた。
 一人は紅茶を注文した客であり、もう一人は鼻歌を歌いながら店内で給仕をしているバイトだ。
 だが面白いことに、二人は奇妙なほど似かよっていた。
 バイトの娘が小首をかしげる。
 肩口で切りそろえた髪は緑、瞳は不思議な色合いの金。地味な色合いの着物の上に店のものであろうエプロンをつけている。
 違いこそあれど、二人の娘は共通の特徴を持っていた。そして何より、顔立ちも似ている。背丈こそバイト娘が低いが、何も知らなければ双子だと思っても不思議ではないだろう。
「どうかしやしたか?」
 バイト娘が聞いた。
 聞かれた客の娘はしかし、
「いや、べつに」
 そういって紅茶を飲み干した。



 ヒダリノは歌う。陽光の中、遠くを見るようにして鼻歌を歌う。

 図書館の中庭。ベンチに座り、空を見上げて鼻歌を歌う。
 陽光に映えるのは肩で切りそろえた緑の髪。バイト娘、ヒダリノだ。
 ねむの木か食堂でバイトをしている以外、ほとんどの時間を本を読んで過ごしている彼女だが、稀に外で歌うことがあった。
 空を見上げて歌うのは、決まってこの鼻歌だ。
 金の瞳に雲を捉え、歌う。
 ――。
「面白い歌だね」
 突然、後ろから声をかけられた。
 しかしヒダリノは、何事もなかったように答える。
「そうでやすかい?」
 彼女が振り向いた先には、一人の少年。褐色の肌に短い黒の髪、縦に流れるストライプが独特なゆったりとした前合わせの衣装。からりと心地良く晴れたような笑顔の持ち主だ。
「俺、カプタール。はじめまして。バイトしてる子だよね?」
 カプタールはそういうと、笑顔のまま腰をかがめた。
 カプタールの身長は百六十センチに届かない程度だが、ヒダリノはそれよりも三十センチ以上背が低い。どう見てもヒダリノは幼い少女だ。そしてそれは事実であった。
「お初に、というのも変でやすかね」
 答えたヒダリノは言葉を濁す。相手が自分をバイトであると知っているのだから会ったことはあるはずだ。事実ヒダリノはカプタールの顔を覚えている。図書館の中でお互いを見かけてはいるのだ。
「あっしはヒダリノといいやす。お見知りおきくだせえ」
 言葉は変にへりくだっているが、ヒダリノも笑顔だ。そこに嫌味はない。
 カプタールはベンチの隣に座りながら、改めて聞く。
「その歌は、どういう歌なの?」
 見ればカプタールの手には小さな弦楽器。いわゆる民俗音楽などを髣髴とさせるものだ。
「この歌でやすか――」
 ヒダリノは少し迷う。
「――どう、と言われても、あっしもあまり詳しくねえんですよ」
 笑顔。だがその笑顔は申し訳なさそうな眉尻を下げたものだ。
「そうなんだ」
 カプタールはやや残念そうな顔を見せる。しかし次の瞬間には元の笑顔だ。
「じゃあ、その歌がヒダリノにとってどういうものか教えて欲しいな」
 歌そのものがわからなくても、歌っているのなら歌っている人にとっては何か思うことがあるはずだ。それを知りたいとカプタールは思う。
「そうでやすねえ……」
 ヒダリノは思い出す。
「この歌は、あっしが世話になった旦那がよく口ずさんでいた歌なんでやすよ」
 そう遠くない、しかし遠く感じる記憶に思いを馳せた。



 ――。
 あまり広くない部屋に、鼻歌が響く。
 部屋の中には棚が敷き詰められており、ほとんどの棚にスケッチブックや画布が納められている。鼻につく匂いは油の匂いだ。
 やや薄暗いその部屋の中央で、一人の男が右腕を振るっている。振るうたびに目の前の画布に色が乗り、色彩がカンバスを埋めていく。
 鼻歌は男が歌っていた。
 画布に色彩を振るう筆の音と、鼻歌がシンクロするように音を奏でる。
 鼻歌が盛り上がっていくほどに、男の描く筆の軌跡も勢いを得ていく。
 一通り、鼻歌を歌い終わったところで男が筆を置いた。
「ヒダリノ、用件は?」
 部屋の中で、男は周囲を見回すこともせずに言う。
 誰もいない部屋。だがそれに答える声があった。
「組織から連絡が一件。旦那の端末に入れてありやす。あと――」
 一拍の間。声がしたほうには、いつの間にかヒダリノの姿がある。
「夕餉が出来やした」
 ヒダリノの言葉に答えず、しかし男は笑みを浮かべた。
「何か?」
 ヒダリノは問う。自分はおかしいことをしただろうかと。
「いやなに――」
 男は振り向く。ヒダリノに向かって。
「君も少し、歌ってみたらどうかと思ってね」
 男の目は可愛いものを見るような、興味深いものを見るような、そんな目だった。
 ヒダリノは考える。あまり深く考えたわけではない。ただ、こう答えてそのとおりにするのがいいと思っただけだ。
 答えを口にする。
「旦那が言うなら」
 男は笑った。何が面白いのかヒダリノにはわからない。ただ、男の左頬にある二本の裂傷が、笑みに合わせて軽く歪むのが印象に残った。

 たわいのないこと。だがこれが、ヒダリノが歌うきっかけだった。



「そうかー」
 カプタールは思う。やはり聞いてみるものだと。
 鼻歌であっても、人が歌うにはその背景があり、少なからずその人の思いというものがあるはずだ。
 それを聞くことは自分の歌というものに様々な影響を及ぼしてくれるもので、言わば栄養だと思う。
 聞いてよかった――。
 そう感じる。
 少なくともヒダリノが持っているこの歌への思いは知ることが出来た。他人の思いは自分にとってみれば物語の一つであり、それを追従するのは言わば体験だ。自分の経験を増やすことが出来る。
 そして――。
「ヒダリノはその人が大切なんだね」
 他人の思いや考えに、自分の想像力が及ぶということだ。
「まあ、そうでやすなあ」
 ヒダリノは言う。
「そう、なりやすかねえ」
 砕けた笑顔。
 カプタールはこの幼い少女と友達になれそうだと、そう思う。
「ねえ、その鼻歌、俺にも教えてよ。いい歌はいろいろ知りたいんだ」
「あっしは人に教えるほど上手くはねえんでやすが――」
 ヒダリノは歌った。他愛のない鼻歌を。
 だがその歌は、歌い手にも聞き手にも、感情を揺さぶるような本当の歌だった。



 秋空の下、紅葉が舞い落ちる。
 それを眺める女は、木造洋建築の手すりに身を預けていた。
 乾いた風がその身を撫でる。
 結った緑の長髪が、風に揺れた。
 あの子はあの歌をどこで知ったのだろう――。
 思いは風とともに流れていく。
 不意に、女は口を開く。
 小さな声で、しかしはっきりとリズムを感じる。透明な声を、紡ぐ。
 歌だ。
 かすかに聞き取れるそれは、孤独と自由を謳う歌。
 ひとしきり歌うと、女――紅林寮の寮監である女。キヌ――は寮の中へ戻っていった。


END


戻る